来て見なされ」
 老師は、にこやかに言つて小僧に茶を運ばせた。
 それ以来、宗右衛門の泰松寺通ひの噂《うわさ》が添田家の内外に高くなつた。宗右衛門は商売も追々番頭にまかせ勝ちになつて行つた。


 夏もだん/\ふけて行つた。仏教の初歩の因果応報説が極《ご》くわづかに宗右衛門の耳に這入《はい》つて来た。過去の悪業《あくごう》が、かりに娘の異状となつて現はれたと観念することは出来ぬかと老師は宗右衛門に問ふてみた。
「めつさうなこと、私は人の命をあやめたことも、人の品物をかすめた覚えもありません」
 宗右衛門は不断の剛情を思はず出して殆《ほとん》ど老師に反抗的な口調で言つた。老師は手を振つて静かに説いた。
「それは違ふ、眼にも見えず、形にもあらはれぬ業《ごう》といふ重荷を、われ/\はどれほど過ぎ来《こ》しかたに人にも自身にも荷《にな》はせてゐるか知れぬ」
 老師の重々しい口調の下に宗右衛門はうちひしがれた。
「さうで御座《ござ》いませうかなあ。私が剛情者といふことは自分でもはつきり判ります。が、それでまたあの身代《しんだい》をこしらへましたので、剛情も別に悪いことゝは思ひませんでしたが」
「ではあなたは、なぜあの身代だけで満足しなさらぬな、娘衆がどうならうと、妻女がその為めに死になさらうと……」
 宗右衛門は、はつと頭を下げた。
「では、御老師、私はどういたしたらその業とやらが果せませうか」
「さあ、眼にも見ず、形の上でも犯さぬ業ならば、やつぱり心の上で、徐々に返すよりほかはあるまい――まづこの呪文《じゅもん》を暇のある毎《ごと》に唱へなさい。心からこれを唱へれば、懺悔《さんげ》の心がいつか自分の過去現在未来に渡つて泌《し》み入り、悪業が自然と滅して行く」
 宗右衛門は、いつか眼に見えぬ形をなさぬ業因を自分の過去に探り初めてゐた。
 宗右衛門の父祖は北国《ほっこく》の或《ある》藩の重職にあつた。が、その藩が一不祥事の為め瓦解《がかい》に逢《あ》ふや、草深い武蔵野《むさしの》の貧農となつて身を晦《くら》ました。宗右衛門の両親は、その不遇の為めに早世した。武家へ生れても孤児の宗右衛門は何の躾《しつけ》も薫育《くんいく》も授《さず》からず、その部落の同情で辛《かろ》うじて八九歳までの寿命を延ばしたに過ぎない。そして江戸の或る御用商人の小僧にやられた。覇気と頑強と、精力的なので多少主人を顰蹙《ひんしゅく》させ、朋輩《ほうばい》達に憎がられはしても、どんどん彼は他を抜いて行つた。こんな具合で彼は二十歳をあまり過ぎなくて最早《もは》や出入りの諸大名の用人達に彼の非凡な商才と勤勉とを認められた。それのみならず、争はれぬ血統からとでも言はうか、彼は無学頑強なうちにも、おのづからなる折目|躾《しつけ》を持ち、武家への応待に一種の才能をさへ持つてゐた。今や彼は衆を圧し、老練な一番々頭をまで抜いて店の主権をかち得ようとした。その時、突然、主人夫妻は、流行の悪疫で同時に死んで行つてしまつたのである。店は間もなく瓦解《がかい》した。多くの奉公人達も自然と離散した。が殆《ほとん》どその時の店の中心であつた彼は単純に身を退くわけには行かなかつた。主人が独り遺《のこ》した娘のお辻は、自然と彼の手中に来て、彼の妻となり、老齢で隠居した一番々頭の外《ほか》に、主人の得意を譲りうけるものはなかつたので、その結果も自然と彼の処へ来た。
 江戸の西郊、彼の卜《ぼく》した地の利も彼に幸ひした。彼のその精力と頑強と覇気とを余すところなく発揮した。主人から譲り受けた出入り先きの五倍、七倍、十倍、年と共に得意の大名の数を増し、二十余台の馬力車は彼の広大な屋敷内に羅列する幾十の倉々から荷を載せて毎日、江戸へ向けて出発した。江戸へ三里の往還には、いつの日もその積荷の影を絶たなかつた。彼の身辺には江戸近郷、遠くは北国西国の果《はて》からまで、何百人かの男女の雇人が密集した。彼は健康で年寄ることも忘れてゐた。妻は従順であり娘達は美しく育つた……。
 彼は自分の発展と幸福の順路を、彼の三十余年間の勤勉と律気から得た当然の報酬としか、どうしても考へられない。彼は懺悔文《さんげもん》の一札を手にして、いくらかの不平をさへ感じた――もつとも彼は妻の葬儀の時、妻に対していくらかの悔《くい》と憐憫《れんびん》は感じた。が、その程度の償《つぐな》ひとして充分あの時|追悼《ついとう》はしてやつた――彼はまた幾らか奉公人に酷な所もなかつたかと省みられる節《ふし》もないではない。しかし、それも結局、やくざ者を用捨なく解雇し、懲戒するだけであつて、その償ひは質の好い使用人を優待することで充分償はれてゐる筈《はず》であるが……はて何であらう、何が斯《こ》うまで酷《ひど》く自分の今の運命に祟《たた》つて来た業因《ご
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