ういん》であらう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
「まあ何でもよい、あまりな、その一念を、ひとつ所に凝らさぬがよい。凝つて凝り過ぎると必ずそこに妄想をひく、娘衆が妄者に見えても困るではないか。何も忘れてな、暫《しば》らく暢気《のんき》にしてゐたが宜《よ》い。そしてあんまり気が腐つたら、あの懺悔文を読むことぢや」
老師はこれ以上難かしい教理など言つて聞かしても、なか/\判りさうもない宗右衛門を、ひたすら現在のまゝでなだめた。
宗右衛門は、一時は自分から進んで難かしい経典などに親しみ、早く何事かを探り当て、どうにかして救はれようとあせつた。しかし彼には徒《いたず》らに判読しがたい文字の羅列であつた。現在の彼の悩みをさそくに救つて呉《く》れなかつた。家に居れば彼は離れ家のことばかり気になつてゐた。二人の娘に対しての無沙汰《ぶさた》がいつも彼は気がゝりであつた。素気《そっけ》ない此頃《このごろ》の父に対する二人の娘の思はくが一通りならぬ彼のなやみの種であつた。しかし、それよりも彼を恐怖の頂上に引き上げるものは、何といつても二人の娘の異形を見なければならないことであつた。
二人は全然、離れ家から出て来なかつた。それでも彼は、家に居れば直ぐ近くに離れ家のけはひ[#「けはひ」に傍点]を感じた。奥庭の小径《こみち》の奥|筑波井《つくばい》の向うの梔《くちなし》の隙《すき》、低い風流な離れ家の棟《むね》。それが何度一日に彼の目につくことであらう。結局彼はいつとはなしに娘達と遠ざかつて行つてしまつた。最早《もは》や娘達に弁解の言葉も尽きた。彼の病的に弱つた神経がだん/\娘達への見栄《みえ》や虚構の力をも失つて行つた。離れ家の方から使ひに来る下婢《かひ》達の姿にも顔をそむけるやうに彼はなつた。
繁昌《はんじょう》盛りの商売から日々揚がる莫大な金も追々彼にはうとましくなつて行つた。彼はなほ委細に彼の身辺に何か業因らしいものを認めようとあせつた。が、彼の屋敷内の数多い倉の一つにも一人の人柱は用ゐてはゐない。一日に何|石《こく》何|俵《びょう》を搗《つ》き出す穀倉の杵《きね》と臼《うす》の一つでも、何十人のなかの誰の指一本でも搗きつぶしたことがあらうか……何にもない。誰を誰もが、どうもしない。三十余年前自分が身を浄《きよ》めて土台を据ゑたこの屋敷内へ、どうしてあの様な浅ましい妄鬼――
前へ
次へ
全19ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング