老主の一時期
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お旦那《だんな》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数人|宛《ずつ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ます/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「お旦那《だんな》の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」
 店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁《ささや》き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人|宛《ずつ》でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。その多人数の何処《どこ》か一角から起つたひとつの話題が、全体へ行き渡るまでには余程の時間がかゝる。そしてその話題によほどの確実性と普遍性がなければ、多くはある一角、または半数、三分の一くらゐなところで、いつも立ち消えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂《うわさ》は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎《と》に角《かく》今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。
 山城屋宗右衛門のその一瞥《いちべつ》で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉《すぐ》れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。
 宗右衛門に二人の娘があつた。上のお小夜《さよ》は楓《かえで》のやうな淋《さび》しさのなかに、どこか艶《なま》めかしさを秘めてゐた。妹のお里はどこまでも派手であでやかであつた。宗右衛門の幸福は、巨万の富を一代にかち得たばかりで満足出来なくて、あの春秋を一時にあつめた美貌《びぼう》を二人まで持つたと人々は羨《うらや》んだ。その二人の娘が――お小夜は十九、
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