の角まで、引っぱって行く。オールを入れて左右のハンドルを片手で握り乍ら素早くシートへ彼女は腰を滑り込ます。ローロックのピンを捻《ね》じると、石垣へ手をやり、あと先を見計らって艇を水のなかへ押し出した。
もの馴れた敏捷《びんしょう》な所作だった。長さ二十五フィート、重量五貫目のスカールは、縦横に捌かれ、いま一葉の蘆《あし》の葉となって、娘の雄偉な身体を乗せている。室子はオールでバランスを保ちながら、靴の紐《ひも》を手早く結ぶ。朝風が吹く。
室子の家の商売の鼈甲細工が、いちばん繁昌した旧幕の頃、江戸|大通《だいつう》の中に数えられていた室子の家の先代は、この引き堀に自前持ちの猪牙《ちょき》船を繋いで深川や山谷へ通った。
室子の家の商品の鼈甲は始め、玳瑁《たいまい》と呼ばれていた。徳川、天保の改革に幕府から厳しい奢侈《しゃし》禁止令が出て女の髪飾りにもいわゆる金銀玳瑁はご法度《はっと》であった。
すると、市民達は同じ玳瑁に鼈甲という名をつけて用いた。室子の家の店はその前からあったが、鼈長という名で呼ばれ始めたのはこの頃からであった。明治初期に、鹿鳴館《ろくめいかん》時代という洋化時代があった。上流の夫人令嬢は、洋髪洋装で舞蹈会に出た。庶民もこれに做《なら》った。日本髪用の鼈甲を扱って来た室子の店は、このとき多大の影響を受けた。明治中期の末から洋髪が一般化されるにつけ、鼈甲類はいよいよ思わしくない。室子の父はこれに代る道を海外貿易に求めた。近頃になっては、昭和五年に世界各国は金禁止に伴って関税障壁を競い出した。鼈長の拓《ひら》きかけた鼈甲製品の販路もほとんど閉された。支那事変の影響は、一方、日本趣味の復活に結婚式の櫛《くし》笄《こうがい》等に鼈甲の需要をまた呼び起したと共に、一方大陸への捌《は》け口はとまった。商売は、痛し痒《かゆ》しの状態であった。
一ばん大敵なのは七八年前から特に盛になった模造品の進出であった。だんだん巧妙な質のものが出て来た。室子の父も、商売には抜からないつもりで、模造品も扱っているが、根に模造品に対する軽蔑があるのが商法のどこかに現れ、時代的新店の努力には敵《かな》わない。結局店を小規模にして、自分に執着のある本鼈甲の最高級品だけを扱う道を執《と》ろうと決めている。娘の室子のことについては、今更|婿養子《むこようし》をとっても、家業が家業なり、室子の性質なりで、うまくは行くまいとの明《めい》だけは両親に在った。蓑吉を仕込んで小規模に家業を継がせ、望み手もあらば室子は嫁に出す考えである。見合いの口が二つ三つあった。
母親がわが事のように意気込んで、見合いの日室子を美容術師へ連れて行き、特別|誂《あつら》えの着物を着せた。普通の行き丈けや身幅ものでも、この雄大な娘には紙細工の着物のように見えた。出来上った娘の姿を見て「この娘には、まるで女の嬌態《しな》が逆についている」と母親が、がっかりした。けれども、美容師の蔦谷女史は、心から感嘆の声を放った。そして、是非、写真を撮らして欲しいと望んだ。だが、室子がそれを断った。
見合いは順当に運んだ。附添って行った母親の眼にも落度は無いように思われた。
ところが翌日仲介者が断りに来た。
「何分にも、お立派過ぎると、あちらは申すんで――」
「立派すぎるなんて、そんな断りようがあるか」
父親は巻煙草を灰皿にねじ込んで怒った。
室子はもう一度見合いをさせられた。それは口実なしに先方が返事を遷延《せんえん》してしまった。
室子はそういう場合、得体《えたい》の知れぬ屈辱感で憂鬱になる。そして、自分に何か余計なものかもしくは足りないもののありそうな遺憾が間歇泉《かんけつせん》のように胸に吹き上がる。けれども、それは直接男性というものに対する抗議にはならなかった。彼女は男性というものには、コーチの松浦を通して対している。
この洋行帰りの青年紳士は、室子の家の遠縁に当り、嘗《かつ》て彼女をスカールへ導き、彼女に水上選手権を得させ、スポーツの醍醐味《だいごみ》も水の上の法悦も、共に味わせて呉れた男だった。
親切で厳しく、大事な勝負には一しょに嘆いたり悦んだりして呉れる。艇を並べて漕ぎ進む。すると松浦は微笑の唇に皮肉なくびれ[#「くびれ」に傍点]を入れ乍ら漕ぎ越す。擬敵に対する軽い憎しみはやがて力強い情熱を唆《そそ》って漕ぎ勝とうと彼女を一心にさせる。また松浦が漕ぎ越す。一進一退のピッチは軈《やが》て矢を射るよりも速くなっても、自分には同じ水の上に松浦の艇と自分の艇とが一二メートルずつ競り合っているに過ぎない感じだ。精神の集注は、彼女を迫った意識の世界へ追い込む。両岸、橋、よその船等、舞台の空幕のように注意の外に持ち去られる。ひょっとして競漕の昂揚点に達すると、颱風の中心
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