にもどかしそうに両手で脇腹を掻く仕草をしたあと、意気地の無い声を出した。
「姉ちゃんにみんな遣《や》んの嫌だあ」
それから蓑吉は人を賺《すか》すときの声を作って
「姉ちゃん、これ、いっち好いの、ひとつあげる」
セルロイドのちっぽけなお酌《しゃく》人形だった。
「あら、驚いた。あと、みんな、あんたのに取っちゃうの」
室子はわざと驚いた風をすると、女中がまたきゅうきゅうと笑う。蓑吉はもう大胆に取り澄して、分取ったおもちゃを並べるのに余念ない風をしている。
室子の父の妾の子である蓑吉は、乳離れするころ、郊外の妾の家から通油町の本宅へ引取られた。蓑吉は、実母である妾のお咲が時折実家へ来て「坊ちゃん」と云って自分に侍《かしず》いても、実母とはうすうす知っていながら別に何とも無い顔をしている。用をして貰うときには、室子の父母が呼ぶように、実母を「お咲、お咲」と平気で呼びつけにする。それで実母も何ともない性質の女で、はいはいと気さくに用事を足している。
室子は、案外その人情離れのしている母子風景が好きだった。
霙《みぞれ》で、電燈の灯もうるむかと思われるような暗鬱な冬の夕暮であった。蓑吉は本宅の茶の間の炬燵《こたつ》へちょこなんと這入《はい》って、しきりに戦争の絵本かなにかに見|耽《ふけ》っている。お咲が下町へ買物に来た序《ついで》だと云って見廻って来た。みやげの菓子袋を前に置いていつもの通り蓑吉の小さい耳のほとりで挨拶した。本に気を取られている蓑吉はお咲に見向きもしないでそのまま本に気をとられている様子だった。だが、室子の母親が出て来て、も一度、菓子袋をお咲がその方へ「粗末なおみやげ」と云ってさし出した。紙袋がごそごそといって、蓑吉の傍へ余計近よると、蓑吉は手だけ延ばした。体はもとの炬燵の中のまま顔も本の方へ矢張り向いているのである。ただ手だけが小さい腕をぐうっと延して菓子袋に届き、蓑吉は上手に袋の口からなかの菓子を一つ握み出そうとした。
お咲に妙な気持ちが込み上げた。
「こら、何です、この子は」
お咲は、思わず地声で叫んだ。吃驚《びっくり》して実母を見た蓑吉の手は怯《おび》えにかじかんで、直ぐには蓑吉の体の方へさえ帰って行かなかった。お咲はすぐ傍に室子の母親のいるのに気付き、普段に戻って、からからと笑った。涙も襦袢《じゅばん》の袖口で一寸抑えて仕舞ったが、蓑吉と同じ炬燵にいた室子は、この光景を見て、何とも仕様のない、人間の不如意の思いが胸に浸み入った。
だが暫くすると蓑吉は、また今度は、ちょっとお咲の顔を見ては、やっぱり、菓子袋へ手を出していた。
そうかと云って室子の見る蓑吉は、手の中の珠のように可愛がる室子の両親に特になつくという訳でもなかった。何か一人で工夫して、一人で梯子《はしご》段の下で、遊んでいるような子供だった。
寮では、今朝、子供の食べるような菓子は切らしていた。だが蓑吉は一わたり玩具をいじり廻して仕舞うと鼻声になり
「何か呉れない。お菓子」
と立上って来た。
室子は仕方なく蓑吉を膝に凭《もた》せながら、午前九時頃の明るさを見せて来た隅田川の河づらを覗いた。
「蓑ちゃん、長命寺のさくら餅《もち》屋知ってる」
「ああ知ってるよ。向う河岸《がし》の公園出てすぐだろ」
「じゃ、一人で白鬚《しらひげ》の渡し渡って買ってらっしゃい。行ける?」
蓑吉は、この冒険旅行に異常な情熱を沸かしたらしい。いきなり室子の膝から離れると
「行けなくってえ――あんなとこ」
捌《さば》けた下町っ子らしい気魄を見せた。
実母にさえ、あんな傲慢なこの子に案外弱気なところがある。室子はそこを一寸突いても見たかった。何か、悄然《しょうぜん》としたあわれ[#「あわれ」に傍点]さをこの子から感じたかった。
だが、女中に銀貨と小銭を貰って出て行く蓑吉の後姿を見送り乍ら、室子は急に不憫になった。だが口では冗談らしく
「蓑ちゃん。船から落っこっても、大丈夫ね、犬掻き位は出来るわね」
蓑吉はもう、行手に心を蒐《あつ》めていた。で
「なんだい、河じゅうみんな泳げら」
爺やの直す下駄《げた》を穿《は》いて出かけて行く蓑吉のあとから、爺やはあははと笑った。
室子は手早く漕艇用のスポーツ・シャツに着換えた。
逞ましい四肢が、直接に外気に触れると、彼女の世界が変った。それは新しい世界のようでもあり、懐《なつか》しい故郷のようでもあった。肉体と自然の間には、人間の何物も介在しなかった。
室子は、寮の脇の藤棚を天井にした細い引き堀へと苔の石段を下った。室子はスカールの覆《おお》い布を除《と》って、レールの端を頭で柔かく受けとめた。両手でリガーを支えてバランスに気を配りながら、巧《たくみ》に艇身を廻転させつつ渚へ卸した。そのまま川に通ずる石垣
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