岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)室子《むろこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黄|薔薇《ばら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くぐも[#「くぐも」に傍点]って
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 パンを焼く匂いで室子《むろこ》は眼が醒めた。室子はそれほど一晩のうちに空腹になっていた。
 腹部の頼りなさが擽《くすぐ》られるようである。くく、くく、という笑いが、鳩尾《みずおち》から頸を上って鼻へ来る。それが逆に空腹に響くとまたおかしい。くく、くく、という笑いが止め度もなく起る。室子は、自分ながら、どうしたことかと下唇を痛いほど噛んで笑いを止め、五尺三寸の娘の身体を、寝床から軽く滑り下ろした。
 日本橋、通四丁目の鼈甲《べっこう》屋鼈長の一人娘で、スカールの選手室子は、この頃また、隅田川岸の橋場の寮に来ていた。
 窓のカーテンを開ける。
 水と花が、一度に眼に映る。隅田川は、いま上げ汐《しお》である。それがほぼ八分の満潮であることは「スカールの漕ぎ手」室子には一眼で判る。
 対岸の隅田公園の桜は、若木ながら咲き誇っている。室子が、毎年見る墨水の春ではあるが、今年はまた、鮮かだと思う。
 今戸橋、東詰の空の霞《かすみ》の中へ、玉子の黄身をこめたような朝日が、これから燃えようとして、まだ、くぐも[#「くぐも」に傍点]っている。その光線が流れを染めた加減か、岸近い水にちろちろ影を浸《ひた》す桜のいろが、河底の奥深いところに在るように見える。
 黄|薔薇《ばら》色に一|幅《ぷく》曳《ひ》いている中流の水靄《みずもや》の中を、鐘ヶ淵へ石炭を運ぶ汽艇附の曳舟が鼓動の音を立てて行く。鴎《かもめ》の群が、むやみに上流へ押しあげられては、飛び揚《あが》って汐上げの下流へ移る。それを何度も繰返している。
 室子は頬を撫《な》でても、胸の皮膚を撫でても、小麦いろの肌の上へ、うすい脂《あぶら》が、グリスリンのように滲み出ているのを、掌で知り、たった一夜の中にも、こんなに肉体の新陳代謝の激しい自分を、まるで海驢《あしか》のようだと思った。(事実海驢はそういう生理の動物かどうか知らなかったけれど)室子は、シュミーズを脱いで、それで身体を拭い捨て、頭を振って、髪の纏《もつ》れを振り放ち乍《なが》ら、今朝の空腹の原因を突き止めた。
 いくら上品にするといっても、昨夜の結婚披露会のあの食事は、少し滑稽だ。皿には、デコレーションの嵩《かさ》ばかりで、実になるものは極《ご》くすくない。室子は、それに遺憾の気持ちが多かったため、かなり沢山《たくさん》招かれた花嫁の友人の皆が既婚者であり、自分一人が独身であったということさえ、あまり気にならなかった。却《かえ》って傍の者達が、室子一人の独身であることを意識してかかっている様子を見せたり、おしゃまな級友は、口に出して遠廻しに、あまり相手を選み過ぎるからだなどと非難した。だが室子は、そういう人事の刺戟《しげき》は、自分の張り切った肉体の表面だけで滑って仕舞って、心に跡を残さないのを知っている。
 玄関の方に自動車の止る音がして、やがて階段の下で、義弟に当る七つの蓑吉《みのきち》の声がする。
「姉ちゃん、お見舞いに来たよ。おもちゃ持って来てやったぞ」
「いま、階下へ降りて行きます、上って来ないでよ――」
 室子は、急いで降りて、蓑吉が階段へ一足かけているのを追い戻して、一緒に階下の座敷へ伴《つ》れて行った。
 湯殿で身体と顔を洗って来て見ると、蓑吉は座敷のまん中へ、女中にほぐして貰《もら》った包みから、沢山のおもちゃを取出して並べている。
 郊外にいる室子の父の妾《めかけ》の子であり乍ら、しじゅう、通油町の本宅の家の子として引取られている蓑吉は、折を見つけては姉のいるこの橋場の寮へ遊びに来|度《た》がっている。室子が此間じゅう、一寸《ちょっと》風邪をひいたと昨日|言伝《ことづ》けたのを口実に、蓑吉は早速母親にせがんで、見舞いに来さして貰ったのだった。
 室子は縁側の籐椅子で、女中を相手に、朝飯を喰べながら
「蓑ちゃんは可笑《おか》しい。姉ちゃんはもう、とっくに風邪なおって起きちまってるのに見舞いに来るなんて」
「でも、来てやったんだい」
 蓑吉は、こまごましたおもちゃを並べるのに余念が無い。
「それ、姉ちゃんのお見舞いに呉れたのね、自分で買って来たの」
「ああ」
「それを買うおあし、お母さんにいくら貰ったの」
「二円だい」
 女中がきゅうきゅう笑った。
「済まないわね、そんなに沢山蓑ちゃんから頂いちゃ」
 室子は、とぼけた声で、云って見せた。
 すると蓑吉は、欲望を割引しなければならない切ない苦痛で顔が真赤になり、物事を決断し兼ねるときのこの子の癖のしきり
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