の無風帯とも見らるべきところの意識へ這入る。ひとの漕ぐ艇、わが漕艇と意識の区別は全く消え失せ、ただ一つのものが漕いでいる。無限の空間にたった一つの青春がすいすいと漕いでいる。いつの頃から漕ぎ出したか、いつの頃には漕ぎ終るか、それも知らない。ただ漕いでいる。石油色に光る水上に、漕いでいる。
ふと投網《とあみ》の音に気が逸《そ》れて、意識は普通の世界に戻る。彼女はほっとして松浦を見る。松浦も健康な陶酔から醒めて、力の抜けた微笑を彼女に振向けている。
艇の惰力で、青柳の影の濃い千住大橋の袂《たもと》へ近づく。彼女は松浦とそこから岸へ上って、鮒《ふな》の雀焼を焼く店でお茶を貰って、雀焼を食べたことを覚えている。
松浦はなつかしい。だが、それは水の上でだけである。陸の上で会う松浦は、単にS会社の平凡で勤勉な妻子持ちの社員だけである。水の上であの男に感じる匂いや、神秘は何処《どこ》へ消えるか、彼は二つ三つ水上の話を概念的に話したあとは、額に苦労波を寄せて、忙しい日常生活の無味を語る。彼女に何か、男というものの気の毒さを感じさせる。その同情感は、一般勤労者である男性にも通じるものであろう。
室子は、隅田川を横切って河流の速い向島側に近く艇を運んで、桜餅を買って戻る蓑吉を待っていた。
水飴《みずあめ》色のうららかな春の日の中に両岸の桜は、貝殻細工のように、公園の両側に掻き付いて、漂白の白さで咲いている。今戸橋の橋梁の下を通して「隅田川十大橋」中の二つ三つが下流に臙脂《えんじ》色に霞んで見える。鐘が鳴ったが、その浅草寺の五重塔は、今戸側北岸の桜や家並に隠れて彼女の水上の位置からは見えない。小旗を立て連ねた松屋百貨店の屋上運動場の一角だけが望まれる。崖普請《がけぶしん》をしている待乳山聖天から、土運び機械の断続定まらない鎖の音が水を渡って来る。
室子は茶の芽生えに萌黄《もえぎ》色になりかけの堤を見乍ら「いまにあの小さい蓑吉が、桜餅の籠を提げて帰って来る――」と水の上で考えている。小さい足はよろめいて、二三度可愛ゆい下駄の音を立てるだろう。あまり往来の多くないこの渡船に乗客は、ひょっとしたら蓑吉一人かも知れない。蓑吉は一人使いの手柄を早く姉に誇ろうと気負い込み、一心に顔を緊張させ、眼は寮の方ばかり見詰めるだろう。そして船頭に渡賃を云われて小銭を船頭の掌に渡すあの子は、もう一度船頭の掌の中の小銭を覗き込むだろう。あの子は多少ケチな性分だから――丁度その頃を見計らって、自分が知らん顔をして、艇を渡船と平行に、すいすい持って行く。それを発見したときの蓑吉の愕《おどろ》きと悦びはどんなだろう。あの「小さき者」は何というだろう。
こんな子供っぽいことに、最大の情熱を持つ今の自分は、普通の女の情緒を、スポーツや勝負の激しさで擦り切ってしまったのかしらん。
だが、何にしても子供は可愛ゆい。男は兎《と》に角《かく》、子供だけは持ち度いものだ――室子は、流れの鴎の翼と同じ律に櫂《かい》をフェーザーしては蓑吉を待っていた。
堤を見詰めている室子の狭めた視野にも、一|艘《そう》のスカールが不自然な角度で自分の艇に近付いて来たことを感じた。彼女は「また源五郎かしらん」と思った。金魚や鮒の腹に食いつく源五郎虫のように、彼女達は水上で不良の男達の艇にねばられることがあった。彼女たち娘仲間の三四人は、これに「源五郎」と符牒《ふちょう》をつけていた。
彼女がいま近づいて来た相手をくわしく観察する暇もない程素早く近寄って来たスカールの上の青年の気配が、彼女に異常に伝わった。その大きな瞳といわず、胸、肩といわず、それは電気性のものとなって、びりびり彼女を取り込め、射竦《いすく》ますような雰囲気を放った。あの競漕の最中に、しばしば襲って来るあの辛いとも楽しいともいいようのない極限感が、たちまち彼女の心身を占めて、彼女を痺《しび》らす。彼女に生れて始めてこんな部分もあったかと思われる別な心臓の蓋《ふた》が開けられて、恥かしいとも生々しいともいいようのない不安な感じと一緒に其処《そこ》を相手から覗き込まれた。
彼女はうろたえた。咽喉《のど》だけで「あっ」といった。オールもまちまちに河下の方へ艇頭を向けると、下げ潮に乗って、逃げ出した。するとその艇も逃さず追って来た。ふだんから室子は結局のところは男に敵わないと思っていたが、この青年は抜群の腕と見えて、彼女の左舷の方に漕ぎ出ると、オールへ水の引掛け方も従容《しょうよう》と、室子の艇の、左舷の四分の一の辺へ、艇頭を定めると、ほとんど半メートルの差もなく漕ぎ連れて来る。その漕ぎ連れ方には愛の力が潜んでいて、それを少しずついたわりに変え、女を脅かさぬように気をつけながら大ように力を消費して行くかのようである。
青年の人柄
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