も人柄なら、その技倆《ぎりょう》にも女の魂を底から揺り動かす魅力があった。室子がいくら焦《あせ》って漕いでも、相手の艇頭はぴたと同じところにある。恥かしさと嬉しさに、肉体は溶けて行くようだった。
 それだけ彼女には異常な圧迫感が加わる。今まで、自由で、独自で自然であった自分が手もなく擒《とりこ》にされるのだ。添えものにされ、食われ、没入されてしまうのだ。
 何と、うしろからバックされて行く自分の姿のみじめなことよ。今まで誇っていた技倆の覚束《おぼつか》ないことよ。自分の漕いで行く姿が、だんだん碕形になる事が、はっきり自分に意識される。
 二つの橋が、頭の上を夢の虹のように過ぎる。室子は疲れにへとへとになり、気が遠くなりながら、身も心も少女のようになって、後からの強い力に追われて行く――この追い方は只事《ただごと》では無い。愛の手の差し延べ、結婚の申込みでは無かろうか。カンとカンで動く水の上の作法として、このようなことも有り得るように思う。
 眼が眩《くら》んで来て星のようなものが左右へ散る。心臓は破れそうだ。泣いて取縋《とりすが》って哀訴したい気持ちが一ぱいだ。だが、青年の艇は大ような微笑そのものの静けさで、ぴたりぴたりついて来て離れない。
 せめて吾妻《あずま》橋まで――今くず折れるのはまだ恥かしく、口惜しい――だが室子はその時すでに気を失いつつあった。

 姉ちゃん、姉ちゃんと蓑吉の呼ぶ声がしたかと思った。室子が気がついてみると、蓑吉はいなくて、自分を抱き起しているのは後の艇にいた青年であった。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日発行
初出:「婦人公論」
   1939(昭和14)年1月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年2月23日作成
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