》、那珂の川でとれたという、蜆貝《しじみがい》。中にははるばる西北の山奥でとれたのをまた貰いに貰って来たといって、牟射佐妣《むささび》という鳥だか、獣だか判らないものをお珍らしかろうと贈りに来た。老衰を防ぐにはこれが第一だといって武奈岐《むなき》を持って来て呉れるものもある。
夜の奥の綾むしろは暖く、結燈台の油|坏《つき》に油はなみなみとしている。
翁は衣食住の幸福ということも考えないではいられなかった。
それで常陸風土記《ひたちふどき》によると一応はこうも事祝《ことほ》いでやった、
「人民集賀、飲食富豊、代々無[#レ]絶、日々弥栄、千秋万歳、遊楽不窮」と。
しぐれ降る頃には、裳羽服《もはき》の津の上で少女男が往き集う歌垣が催された。
男列も、女列も、青褶《あおひだ》の衣をつけ、紅の長紐を垂れて歌いつ舞った。歌の終り目毎に袖を挙げて振った。それは翁の心に僅かに残っている若やぐものに触れた。
岳神の妻は、笑って冗談のようにして、
「この中に、もし、お気に入りの娘でも見当りましたら、お身のまわりのお世話に侍かせましょう」
といって呉れた。
しかし翁は寂しかった。
ある日、土民の一人が瓜《うり》わらべを拾って持って来て呉れた。それは猪の仔で、生れて六七月になる。筒形をしていて柔かい生毛の背筋に瓜のような竪縞が入っていた。それで瓜わらべと呼び慣わされていた。
「これはよいものを貰った。肉は親の猪より軟かでうまいものです」
息子の岳神はそういって、父の祖神に食べさすように妻に命じた。
翁は、ういういしく不器用な形の獣の仔を見ると、何か心の喘ぎが止まるような気がした。とても殺して食べさせて貰う気なぞ出なかった。
「ちょっと待って呉れ。これはそのままでわしが貰おう」
翁は、瓜わらべを抱えて戸外へ出た。瓜わらべはくねくね可憐な鳴声を立てて鼻面を翁の胸にこすりつけた。翁は何となく涙ぐんだ。
翁は螺の腹にえび蔓の背をした形で、瓜わらべを抱え、いつの間にか、いつぞや、息子の岳神に教えられた山ふところの猪の相撲場に来ていた。蹄で蹴鋤いた赤土はほかほかしている。
山の祖神は、あたりを見廻した。見ているものは保与《ほよ》のついた山松ばかりだった。翁は相撲場の中へ入り瓜わらべを土の上へ抱き下した。
螺の腹にえび蔓の背の形をした老翁と、筒形の瓜わらべとは、猫が毬《まり
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