婦に、何であの福慈の女神のことなぞが判るものか」と想いながら、こういう言葉で姉娘に関る話は打切りにした。
「なに、あれで、なかなか女らしいところもあるんだよ」と。

 この山は人間が昵《なじ》み易い山だった。水無《みなの》川を越えて山腹にかけ山民の部落があった。石も多いがしかしそれに生え越して瑞々《みずみず》と茂った、赤松、樅《もみ》、山毛欅《ぶな》の林間を抜けて峯と峯との間の鞍部に出られた。そこはのびのびとしていて展望も利いた。
 二つに分れている峯にはどちらにも登れた。岳神の息子夫妻の象徴のように一方は普通の峯かたちで、一方はいくらか繊細《きゃしゃ》で鋭く丈《た》けも高かった。山の祖神の老いの足でも登れた。
 東の国の平野が目の下に望まれた。その岸に寝た刀禰の川水がうねうねと白く光って通っている。河口の湖のような入江。それから外海の波が青く光っている。
 西北の方には山群が望まれて、翁の心を沸き立たした。も少し自分の齢が若かったらこどもをあれ等の岳神に送るのにと思わしめた。山郡のところどころに高い山が見えた。煙りを噴いてる山も望まれる。遠く福慈岳が翁の眼に悲しく附き纏《まと》う。
 奇妙な形をしたいろいろの巨きな岩、滝――女体の峯から戻って来る道には、そういう目の慰みになるものもあった。虫を捉えて食べるという苔、実の頭から四つの羽の苞《つと》が出ている寄生木《やどりぎ》の草、こういうものも翁には珍らしかった。
 息子の岳神は暇な暇な、父の祖神を山中に案内して見せて廻るうち、ある日、山ふところの日当りの小竹《ささ》原を通りかかり、そこに二坪近くの丸さに、小竹之葉《ささがは》が剥げ、赤土が露《む》き出ているのを見付けると、息子の岳神は指して笑いながらいった。
「猪が仔猪をつれて来て相撲《すま》って遊ぶところです」
 赤土は何度か猪の蹄《ひづめ》に蹴鋤かれたらしく、綿のように柔かに、ほかほか暖そうであった。
「なるほど、この辺は人里離れて、猪の遊ぶのに持って来いだ」
 翁はそういって、傍の保与《ほよ》(寄生木)のついている山松を見上げた。その日は何心なくそれで過ぎた。
 岳神の父親が滞在すると聞き付けて、配下の土民たちはところところの産物を父の祖神に差上げて呉れと持って来た。
 加波山で猟れた鹿らしく鹿島の猟で採れた鰒《あわび》、新治《にいばり》の野で猟れた、鴫《しぎ
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