》を弄ぶように、また、老牛が狼に食《は》まれるように、転びつ、倒れつ千態万状を尽して、戯れ狂った。初冬の風が吹いて満山の木が鳴った。翁は疲れ切って満足した。瓜わらべにちょっと頬ずりして土に置いた。瓜わらべの和毛《にこげ》から放つらしい松脂の匂いが翁の鼻に残った。
 翁はしばらく息を入れていた。瓜わらべは小竹の中へ逃げ込みそうなので片手で押えた。
 膝がしらがちくちく痛痒い。翁が検めみると獣の蝨《だに》が五六ぴき褌《はかま》の上から取り付いていた。猪の相撲場の土には親猪が蝨を落して行ったのだった。
「こいつ」
 といって翁は、膝頭の蝨を、宝玉を拾うように大事に、一粒ずつ摘み取る。老いの残れる歯で噛み潰した。獣の血臭いにおいがして翁の唇の端から血の色がうっすりにじんだ。満山の風がまた亙る。
 翁にはもう何の心もなくなった。手を滑った瓜わらべは逃れて小竹の茂みに走り込んだ。代りに親猪の怒れる顔面を翁は保与《ほよ》のついた山松の根方に見出した。
 山の祖神の事である、山に棲めるほどのものを自由に操縦できないいわれはない。けれども、翁は、
「命終のとき」
 といって、従容とその親猪の牙にかけられて果てた。

 初夏五月の頃、富士の嶺の雪が溶け始めるのに人間の形に穴があく部分がある。「富士の人型」といって駿南、駿西の農民は、ここに田園の営みを初める印とする。その人型は螺の腹をしえび蔓の背をした山の祖神の翁の姿に、似ている。いやそれにやや獣の形を加えたようでもある。
 ここにまた筑波の山中に、涙明神という社がある。本体には富士の火山弾が祭ってある。

 山の祖神《おやのかみ》が没くなるとまもなく子が無いことを託《かこ》っていた筑波の岳神夫妻の間にこれをきっかけに男女五人ほどのこどもができた。
 風の便りに聞けば、山の眷属の西国の諸山にも急にこどもの出生の数を増したという。
 老いたるは、いのちを自然に還して、その肥田から若きものの芽を芽出たしめるという。
 生命の耕鋤順環の理が信ぜられた。
 水無瀬女は、豊かな山に生れ、しかも最初に生れた総領娘なので、充分な手当と愛寵の中で育てられた。ふた親は常に女《ひめ》にいって聴した。「東国では、あなたが、あの偉大な山の祖慫神《おやのかみ》さまの一番の孫なのですよ」と。孫娘はおさな心に高い誇りを感じた。
 ふた親は、なお、祖父の神の偉大さを語
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