な勾配を認めたように思った。
草枕、旅の露宿に加えて、夢も皺《しわ》かく老の身ゆえに、寝覚めがちな一夜であるのはもっとものことだが、この夜は別けて翁をして寝付かれしめぬものがあった。翁は興奮に駆られて自ら歓びをたしなめる下からまた盛り上る歓びにうたた反側しながら呟いた。
「山近し、山近し」
と。
あくる日は翁は一日歩いて、また一二尺掠り除かれた雲の裾から山の麓《ふもと》を、より確かに覗き取ったが、歩めども歩めども山の麓の幅の尽きらしい目度《めど》を計ることができなかった。
年寄の歩みはたどたどしいにしても翁は次いで三日も歩んだ麓の幅を計ることはできなかった。
これはひょっとしたらいくつかの山の麓が重り合っているのではないかと翁は疑った。でなければ、麓の丸の縁《へり》に取り付いてぐるぐる廻りをしているのではあるまいかとも思った。
雲の裾は、今度は数間の丈けに掠り除られ、そのまま止まって少しも動かなくなった。その拡ごりの隙より、今や見る土量の幅は天幅を閉《ふた》ぎて蒼穹は僅かに土量の両|鰭《ひれ》に於てのみ覗くを許している土の巨台に逢着した。翁は呆《あき》れた。これが普通いう山の麓であることか、おおらおおら。
翁は、慄えながら行き合せた野の人に訊ねた。そして、山は福慈岳《ふくじのたけ》、います神は福慈神《ふくじのかみ》というのであると教えられた。
たそがれは天地に立籠め、もの皆は水のいろに漂いはじめたが、ただ一つ漂わされぬものがあって山ふもとの薄明りの野に、一点の朱を留めていた。それは庭の祭りのかがり火であった。神楽《かぐら》の音も聞えて来る。
かがり火は、薪木の性と見え、時折、ぷちぱちと撥ね、不平そうに火勢をよじりうねらすが、寂莫たる天地は何の攪《か》き乱さるる様子もなく、天地創ってこのかた、たそがれちょうものの待つ、それは眠るにも非ず覚めたるにも非ざる中間に於て悠久なるものを情緒に於て捉《とら》えようとするかれ持前の思惟の仕方を続けている。水のいろをかがり火のまわりに浸して静に囲んでいる。
かがり火も張合いがなく、まもなく火勢をもとの蕊《しべ》立ちの形に引伸し焔《ほのお》の末だけ、とよとよとよとよと呟かしている。神楽の音が聞えて来る。
晩秋の夕の露気に亀縮《かじか》んだ山の祖神《おやのかみ》の老翁は、せめてこのかがり火に近寄ってあたりたかった
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