も無かった。

 鶏《とり》が鳴いて東《あずま》の国の夜は開けかけた。翁はきょうこそ見ゆれと旅路の草の衾《ふすま》から起上がった。きょうもまた漠々たる雲の幕は空から地平に厚く垂れ下り、行く手の陸の見晴しを妨げた。風は※[#「水/(水+水)、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》たる海面から吹き上げて来て空の中で鳴った。風の仕業《しわざ》か雲の垂幕は無数の渦を絡み合せながら全体として、しずかにしずかに、東の方へ吹き移されて行く。いくら吹き移されても雲の垂幕は西のあとから手繰《たぐ》られて出た。翁は目あての山の一つが見える筈の東国へ足を踏み入れてから毎日この雲の垂幕に向って歩んでいる。山の祖神《おやのかみ》の翁はその冥通の力をもって、これはこの山は物惜しみする中年女の山なのではあるまいかと察した。また恥かしがりやの生娘の山なのではあるまいかとも思った。西国の山にかけては冥通自在な翁も、東国へ足を踏み入れ東国の山に対するとき、つい不勝手な気がしてその冥通の働きをためらわした。そこに判断を二亙《ふたわた》らす障《さわ》りがあった。
 季節は初冬に入っていた。旅寝の衣には露霜が置いていた。翁は湿り気をふるって起上った。僅かに残っている白い鬢髪からも、長く垂れた白い眉尖からも雫が落ちた。雨風に曝され見すぼらしくなった旅の翁をどこでも泊めようとしなかったのだ。翁は煩わしく雫を払いながら朝餉《あさがれい》を少し食べた。持ち亙って来た行糧ももはやほとんど無くなっていた。翁は朝餉を食べ終ると冷えた身体を撫でさすりいささかの暖味に心を引立たして貰って、きょうの旅路の踏出しにかかった。
 鶏はおちこちで鳴き盛って来たが、行く手の垂れ雲は晴れようともしなかった。捲き返す浪打際のいさごを踏んで翁はとぼとぼと辿《たど》って行った。海上の霧のうすれの明るみに松の生え並ぶ白州の浜が覗かれた。翁は島かとも見るうちにまた霧に隠れた。
 その日の夕近く、翁は垂れ雲を左手にした、垂れ雲の幕の面を平行する行路の上を辿るようになった。落日の華やかさもなく、けさがたからの風は蕭々《しょうしょう》と一日じゅう吹き続けたまま暮れて行くのであるが、翁には心なしか、左手の垂れ雲の幕の裾が一二尺|掠《かす》り除《のぞか》れて行くように思われた。あたりが闇に入る前に、翁はその幕の掠り除れた横さまの隙より山の麓らしい大よう
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