の上に幾たびかの春秋が過ぎた。けれども、翁の齢《よわい》の老《おい》に老の重なるしるしらしいものは見えなかった。翁は相変わらず螺の腹にえび[#「えび」に傍点]蔓の背をしてこそおれ、達者で、あさけ夕凪には戸外へ出て、山々の方を眺めた。そして心の中で、わが眷属は、分身は、性格の一面は、と想った。想う刹那《せつな》に、山々の方から健在のしるしの応《うけ》答えが翁の胸をときめかすことによって受取られた。翁は手をその方へ掲げて、彼等を祝福した。
ただ東国の方へ遺った、まだ見ぬ山に棲める筈の姉と弟の方からは、翁のこれほどの血の愛の合図をもってしても何の感応道交も無かった。翁は白い眉を憂げに潜め
「除汝《なおきて》、除汝《なおきて》、はや」
そういって力なく戸の中に戻った。
空間といえども自然の支配下のものであろう。自然に冥通を得た翁の、僅にあずまと離れた空間の隔りに在る二人のいとし子に冥通の懸橋をさし懸けられぬいわれはなかった。だが翁の心に於て、まず最初に、こどもの存否を気遣う疑念があった。懐疑、躊躇《ちゅうちょ》、不信、探りごころ――こういう寒雲の翳は、冥通の取持つ善鬼たちが特に働きを鈍らす妨げのものであった。この翳が心路の妨げをなすことはただ[#「ただ」に傍点]人同志の間にもあることであろう。危む相手にまごころをば俄《にわか》にはうち出しにくい。
翁は謙遜《けんそん》な人であった。たとえ長寿を保つことに自在を得ているにしろ、翁は人並を欲した。翁はこの時代の人寿のほどを慮《おもんばか》っておよそこれに做《なら》おうとした。その目安をもって計るに、もはやわが期すべき死は生き行きつつあるいまの日よりだいぶ前に過ぎ越している。翁は苦笑しながら直ちにも雲を変じ巌に化しても大事ないとは思った。しかし人間に居し人情を湛えた生涯を尽す最後の思い出にはどうか東国に送った二人のこどもの身の上を見定めてからのことにしたいと考えた。すでに死を期しては月色に冴えまさり行く翁の心丹に一ひら未練の情がうす紅色に冴え残った。翁は意識にこれを認めると、ぽたりぽたりと涙を零した。
翁は、螺の腹にえび蔓の背をしたまま旅の餉《かれいい》を背負い、杖を手にして東路に向った。妻は早く死に、陽のさす暖い山ふところの香高い橘の木の根方に泰《やす》らかに葬ってある。もはやうしろ髪ひかるる思いのものは西国には何もの
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