まして居た。
「ひどい。なんの理由もなしに………」
 性急にどもり乍《なが》ら男の声は醗酵した。
「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。口説《くど》いたのよ。ここのうちの青熊が」
「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」
 男の略図のような単純な五臓六腑が生れてはじめて食物を送る為以外に蠕動《ぜんどう》するのが歯朶子に見えた。男は慄《ふる》える唇を前歯の裏でおさえていった。
「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」
 その次におかみさんに逢ったとき歯朶子はいった。
「ありがとう。塩はほんとうに利いてよ。あの人に情が出てよ」
 おかみさんは前に自分の云ったことを忘れて居た。そして歯朶子からはなしの全部を聞いて驚いて仕舞った。
「あたしゃ、でたらめに塩をつけたらと云ったのに、あんたはほんとうに塩をつけて喰べたのね。なるほど男に塩をつけるってそうするものなのね」
 その晩おかみさんは亭主に云った。
「へんなことがあるんだよ。おまえさん。歯朶子の情人があたしのようなものを口説くんだよ。本気でだよ」
 安ウイスキーを嘗《な》めて居た亭
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