下げ終わり]
浪華《なにわ》の堀を出て淡路の洲本《すもと》の沖を越すころは海は凪《な》いで居た。帆は胸を落ち込ました。乗込客は酒筒など取り出した。女に口三味線を弾かせて膝の丸みを撫で乍らうとうとする年寄りもあった。
陸は近かった。松並木は一重青く浮き出して居た。その幹の間から並んで動いて行く小さい苫屋《とまや》が見えた。あたたかな砂浜には人が多ぜいいかなご[#「いかなご」に傍点]を漁《と》る網を曳いて居た。犬が吠え廻った。
船舷《ふなべり》に頬杖を突いて一眠りした蒔蔵は痺《しび》れたような疲れもすっかり癒《なお》った。やる瀬ない気持ちだけが残った。
「そうだ簪《かんざし》があったのだ、おもかげをしのぼう」
よじれて来る浪頭《なみがしら》を一すくい掌に掬《すく》い取って口にふくみ顔を撫でて新らしい三尺手拭でふいた彼は、眼の前の春の海原のなかに木屋町の白けたきぬぎぬを思い出した。あけ方の廊下は冷たかった。鉛の板のような草履《ぞうり》だった。女は湯も取っては呉れなかった。ただ傍に立っていて欠伸《あくび》をした。女の横顔をせめて別れにしみじみ見て置こうとしたら向うを向いて仕舞った。
「薄情者|奴《め》が横顔さえも惜んだのか。向うむくはずみにわたしの袖《そで》の上へ落ちたのがこの簪なのだが、女は気がつかなかった。わたしはそのまま袖のなかへすべり込ませた。安っぽい銀簪。なんだ菊が彫《ほ》ってある。小癪《こしゃく》にも籬《まがき》が彫ってある。汚い油垢が溜って居る。それで居て、これを見ると恋しいのはどういうわけだ。ままよ嗅いでみてやれ」
捻《ひね》くる拍子に簪を海へ落してしまった。蒔蔵はその時たいして惜しいとも思わなかった。まわりの景色だけに何故かよく気がついた。
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
船は港の泊りを重ねて尾州|蒲郡《がまごおり》へ錨《いかり》を下した。蒔蔵の故郷豊橋へはもう近い。
しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての上方《かみがた》行きの代償は、たったあの銀の簪一本になったのだ。彼をそうさした女のたった一つの形見だったのだ。持って居て一生恨み辛《つら》みを云わねばならぬ。
前へ
次へ
全13ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング