た。
「そうすると、その不可能を可能にしようとする苦しみの間から人間の情緒が汗のように出るね。勇気、失望、狡猾《こうかつ》、落胆、負け惜しみ、慰め――その間には叩かれた女の掌のやきもち筋も見えるよ。どこかへ生み落したはずと思う子供の片えくぼも出るよ。うっかり余分にやって黙って取られて仕舞った稿銭のたかも思い出すよ。だが、結局、そんなものも焼きつくしてしまってときどき花火のようなものが光るね。鏡を陽に当てて焦点を眼玉のなかへ射込ませる。あんなやわ[#「やわ」に傍点]なものじゃないよ。眩《まぶ》しいのが口のなかまで押込んで来て息が出来なくなるんだよ。おまえさんその時、きっとあっ[#「あっ」に傍点]というね。おまえさん思わず頭を手でうしろから押えなさるかも知れんよ。頭のなかで働かしすぎた智恵の調革《ベルト》が引切れたとでも思いなさってよ。だが、そんなものじゃ無いよ、それは。こっちでも向うでもないんだよ。ちょっと耳をそばへ持って来なさい。小さい声で談《はな》すよ。あれはね猶太《ユダヤ》人のアインスタインが飯の種にしているあの「空間」というものだね、その証拠にはあの火花に頭を持って行かれるときエッフェル塔の頂上だけ土台も胴なかもなくてふんわりあの高さに浮ばせる無理が不思議でなく顕現するんだよ。は は は は は は。おれが思うのには聖オウガスチンという男はあわてものさ。あの火花を見ただけで神様の体まで見てしまったものと早合点したのさ。あれは神様じゃ無いよ。あれは神様の後光だけなんだよ。神様の体なんていものは伊太利《イタリー》の生章魚《いきだこ》のようにその居場所によってその居場所と同じようになっちまうんだから到底見えやしないよ。
 そうかい、おまえさん、橋を渡って河岸《かし》を歩いて帰りなさるかい。今日は天気が宜いから曳舟《ひきぶね》から岸壁の環へ洗濯|紐《ひも》を一ぱい張ってあるから歩き憎《にく》いよ。は は は。あすこの釣好きの馬鹿を見なさい。釣った魚を、ポケットへ蔵い込んで大事にボタンを締めたよ」

     乗[#レ]船失[#レ]盂喩

[#ここから3字下げ]
或《ある》愚男が海に盂を落した。男は直ちに落した箇所の水流の具合など描き取って置いた。二ヶ月して他国で前に描いて置いた水の具合いに似た海に来た。男は盂を得ようとして其処《そこ》を探して得なかった。
[#ここで字
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング