に、銀座の宵の人の出盛りが見渡された。
「イチロは、私たちが旅行に出かける前の晩も、私のうちへ送別に来て、夜遅くまで話して行って呉《く》れました」
K・S氏はまず何事より、むす子の話こそ、両親への土産という察しのよさを示して、頻《しき》りにむす子のことを話した。
K・S氏は何度も繰り返して「彼はとても元気です」
箸《はし》をあやしげに操っていた若い夫人が傍から、
「イチロ、ふふふ」と笑った。
かの女はぎょっとして、むす子に何か黙笑によって批判される行動でもあったのかと胸をうたれた。そして夫人の笑の性質によって、それが擯斥《ひんせき》されるべきものであったのか看《み》て取りたく思った。だが、かの女が夫人を凝視したとき、夫人はもう俯向《うつむ》いて、箸で吸物椀《すいものわん》の中を探っていた。
「一郎が何かいたしましたの」
かの女は思わず声高になった。
すると、K・S氏が懸念を速かに取消すように簡略に話して呉れた。
「私たちが結婚して間近い頃でした。イチロが来たので、ビールを飲みながら夜遅くまで芸術論を闘わせました。一口に巴里《パリ》の新しい画派を抽象派《アプストレー》と云いますが、その中で個人個人によって、随分主張傾向は違っているのです。まあそういったことに就《つ》いての議論ですな。するうち、イチロは眠くなって椅子《いす》によりかかったまま眠って仕舞いました。私たちは日本の美術家に敬意を表して、私たちのベッドを譲りました。つまり彼を二人で運んでベッドへ寝かせてやり、私たちはソファや椅子を並べて寝たわけですな」
かの女は「まあ」と云った。
「まだ先があるんです。朝、彼は眼を覚ましました。勝手が違ったところにいるので、彼は妙な顔をしていました。しかし、一部始終が判ると、彼は真面目《まじめ》な顔を作って云いました。どうも君たちの新婚の夢を妨げて相済まんと。それから帰って行きました」
ここで、夫人はまた、「イチロ、ふふふふ」と、かの女の顔を見て好意の籠《こも》った笑いを贈った。
かの女は、再び「あ」と云って笑いに誘われた。逸作は、むす子の仕方を想像して、健気《けなげ》な奴と云った表情で笑っている。
しかし、かの女は笑いに巻き締められるような想《おも》いが胸に泛《うか》んだ。自分がともすれば誤解を受け易い性質から、強い味方が出来ると思う一方、強い敵の出来
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