母子叙情
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)屑《くず》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)自身|嘗《な》めた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「口+喜」、第3水準1−15−18、637−下−13]
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 かの女は、一足さきに玄関まえの庭に出て、主人逸作の出て来るのを待ち受けていた。
 夕食ごろから静まりかけていた春のならいの激しい風は、もうぴったり納まって、ところどころ屑《くず》や葉を吹き溜《た》めた箇所だけに、狼藉《ろうぜき》の痕《あと》を残している。十坪程の表庭の草木は、硝子箱《ガラスばこ》の中の標本のように、くっきり茎目《くきめ》立って、一きわ明るい日暮れ前の光線に、形を截《き》り出されている。
「まるで真空のような夕方だ」
 それは夜の九時過ぎまでも明るい欧州の夏の夕暮に似ていると、かの女はあたりを珍しがりながら、見廻《みまわ》している。
 逸作は、なかなか出て来ない。外套《がいとう》を着て、帽子を冠《かぶ》ってから、あらためて厠《かわや》へ行き直したり、忘れた持物を探しはじめたりするのが、彼の癖である。
 洋行中でも変りはなかった。また例のが始まったと、彼女は苦笑しながら、靴の踵《かかと》の踏み加減を試すために、御影石《みかげいし》の敷石の上に踵を立てて、こちこち表門の方へ、五六歩あゆみ寄った。
 門扉は、閂《かんぬき》がかけてある。そして、その閂の上までも一面に、蜘蛛手形《くもでがた》に蔦《つた》の枝が匍《は》っている。扉は全面に陰っているので、今までは判《わか》らなかったが、今かの女が近寄ってみると、ぽちぽちと紅色《べにいろ》の新芽が、無数に蔦の蔓《つる》から生えていた。それは爬虫類《はちゅうるい》の掌のようでもあれば、吹きつけた火の粉のようでもある。
 かの女は「まあ!」といって、身体は臆《おく》してうしろへ退いたが、眼は鋭く見詰め寄った。微妙なもの等の野性的な集団を見ることは、女の感覚には、気味の悪いところもあったが、しかし、芽というものが持つ小さい逞《たくま》しいいのちは、かの女の愛感を牽《ひ》いた。
「こんな腐った髪の毛のような蔓からも、やっぱり春になると、
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