むす子の手紙二――(前略)……お母さんは余りに自分流のカテゴリーを信じようとしすぎるような気がします。だから苦しみ迷うだろうと思います。
 人生はさとるのが目的ではないです。生きるのです。人間は動物ですから。(後略)

 むす子の手紙三――(前略)ですからもうあんな作品を書かないで下さい。僕がお母さんを攻撃するのは、実に悪い半面をたたきつぶすのが僕の愛された子としてのつとめだと思っているからです。(お母さん、あなたは実に好い半面と悪い半面を持っています。第一義的から云ったら好いも悪いもないけれど、僕の知る厳しい人生や芸術に当てはめて見てですよ)
 いくら僕が云っても、わかって呉《く》れなかったら、お母さんは自分の子のいうことさえ耳に入らないということになるのです。
 今読んで打たれているコント・ド・ロートレアモン(本名イジドル・デュカス)作の「マルドロールの唄《うた》」を送ります。お母さんに読んで貰い度《た》いのです。
 お母さんの、僕が不安に思う半面が、それで多少なおされやしないかと希望を持って居ります。(後略)

 むす子の手紙四――(前略)僕はいわゆる××と芸術と云うものの間に大きな溝があると思うのです。芸術家にとっては芸術というものしかなく、それは道徳的でも非道徳的でもないのです。
 これからの芸術家は芸術を信ずるので、××を信ずるものではないと思うのです。芸術家として××よりもっと科学的な××××だって信じ切ることは出来ないのです。芸術家が自分の眼の前に××よりも優れた芸術の姿が見えないのは、意気地のない貧弱な芸術家としか思えないのです。××より崇高な芸術が見えたら、それがすぐ××だなんて××のような理窟を云い出したら、僕は逃げ出しちゃいます。其処から又××にこだわり出して仕舞うのです。一口に云えば芸術家には人の作った××などはいらないのです。××を通して芸術を見たり、××的精神をもった生活から、果してよく芸術が生れるでしょうか。 
 アンドレ・ジードなんか一生××と戦って来たではないですか。
 今まで人間として又芸術家として××を持っていなかったものは、歴史的にないでしょう。それは勿論《もちろん》社会制度、つまりトラディションのためだったらしい。偉い芸術家はみんな最後まで××に拘泥してはいないように思うのです。彼等の芸術はあまりに大きくて、××は姿を
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