といつも思ってますって、一郎君が云われたことです、とさ」
 かの女は手を合わせて拝み度くなった。それは何処へかわからない、ただ有難い。徒《いたず》らに大きな理想を持っても万人は愚か、自分自身でさえ幸福になり得ない非力な人間が、ともかくもわが子とは云え、一人立派に成長した男子を今や完全な幸福感に置いている――それでまた親の責務の一端が肩から降りた気もするのである。かの女はいつも思っている。こんな生きる責務の重い世の中へ親あればこそ生れ来たった子。この世に出ようという意志が子にあって、自ら進んで出て来たわけでもないものを、親は先《ま》ず本能愛以外の明瞭《めいりょう》な責任観念からも、この世に於ける子の運命の最大責務者とならなければならない。その子に仕合せと一言でも感謝されるまでには、幾多の親の責任感と切実な哀憐《あいれん》が子に送られた結果なのである。そしてそれはまた、子に責任感を十分感じる親の報いられたる幸福でもあらねばならぬ。


 数年間に巴里のむす子からかの女に宛《あ》てて寄越した手紙は百通以上にもなる。自分の現状を報じ、芸術の傾向を語り、ちょっとした走り書きの旅行便りからも、かの女はむす子がこの稚純晩成質の母である自分を強くし、人生の如何なる現実にも傷まず生きられるよう、しっかりした性根と、抵抗力のある心の皮膚を鍛えしむるよう心懸けている本能的なものが感じられた。
 かの女はそれを読む度に、涙ぐんで笑いながら、
「それは、また、お前がお前自身に対する註文なのじゃないか。親子は共通の弱点を持っている。お前はよくも、そこに気がついた」
 そしてさすがは男の子だ。むす子は孤独の寂しみと、他人の中の苦労によって、見事その弱点を克服しつつある。そして遥《はる》かに母を策動する。いや味ということの嫌いな男の子は、策動するにもわざと感情を見せないで、つけつけ物を云う。かの女を手荒そうに取り扱って、その些細《ささい》な近況からも、実人生の試験をするように細心な見張りを隠しながら、秘《ひそ》かに母の力を培わしている。かの女は、よくむす子と連れ立って巴里の街を歩くときのむす子の態度を思い出した。
「馬鹿だなあ」「僕もう知りませんよ」
 かの女が、ともすれば何事かを空想しながら、車馬轢轆《しゃばれきろく》たる往還を、サインに関らずふらりふらり横切ったり、車道に斜にはみ出したりする迂
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