――レデーを二人も傍に置いときながら国元の奥さんの想い出に耽《ふけ》るなんて、あたしたちに失礼だわねえ、マドモアゼル。さあ、もう此のくらいで出かけましょう。」
[#ここで字下げ終わり]
 夫人は日傘とお揃いの模様の女鞄の中から手早く勘定を払った。
 あたりの賑わしさを頭から叩き伏せるように力ずくの音楽が破裂している。それに負けまいとメリーゴーラウンドの台が浪を打って廻転する。此所ピギャールの角を中心に色々の屋台店が道の真中に軒を並べている。新吉と二人の女とはモンマルトルの盛り場の人混《ひとご》みへ互に肩を打当てゝ笑いさゞめきながら、なだれ込んだ。一軒の屋台では若者達が半身乗り出して、後へ上げた足に靴の底裏を見せながら、竿の糸でシャンパンの壜を釣ろうと競って居る。一軒の屋台では女を肩に靠《もた》せながら男が白い紙を貼った額《がく》を覗っている。鉄砲が鳴って女がぴくっとする刹那に額の白紙は破れて二人の写真が撮れているのだ。泣き出しそうな憂鬱な顔をして棒のように立っている運命判断の女。ルーレット球ころがし。その間にけばけばしい色彩で壁に淫靡《いんび》な裸体女と踏み躙《にじ》られた黒人を描いて、思わせ振りな暗い入口が五六段の階段の上についている|食しんぼう小屋《ラ・バラック・ド・グウルユ》のようなものが混っている。
 人々が此所へ来ると野性と出鱈目をむき出しにして、もっと/\と興味を漁《あさ》るために揉み合う。球を投げ当てゝ取った椰子《やし》の実をその場で叩き割り、中の薄い石鹸色の水をごぼごぼ咽喉を鳴らして飲みながら職人風の男が四五人群集を分けて行く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ちょいと気を付けてよ。汁が跳ねかえってよ。まさかあんたがいゝ人になってあたしのよごれた靴下を買い直して呉れるわけでもなし――。」
――はい、はい、気を付けますよ。抱《だ》き堪《ごた》えのあるお嬢さん――。」
[#ここで字下げ終わり]
 ジャネットは此の人混《ひとご》みにあおられるとすっかり田舎女の野性をむき出しにしてロアール地方の訛《なま》りで臆面もなく、すれ違う男達の冗談に酬いた。白いむきだしの腕を張り腰にあて誇張した腰の振り方をし、時に相手によってはみだりがましくも感じられる素振りさえ見せて笑った。曲げた帽子の鍔《つば》の下からかもじ[#「かもじ」に傍点]の巻毛の尖きを引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ/\発揮した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――HEY《ヘイ》!。」
[#ここで字下げ終わり]
 何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨《りゅうりょう》と吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬ睫《まつげ》のなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さのあったカテリイヌの体重さえも太陽に熱くなったズボンの下の膝に如実に感じられるのだった。そしてだん/\新吉は疲れて行った。
 新吉は堪らなくなった。彼を無意識に疲れさすその面影から逃れるためには現実のカテリイヌが早く出て来て呉れるか、もっと違った強力な魅惑が彼の注意を根こそぎ奪うかして呉れるのでなければならなかった。新吉は早くこの二人の女に別れて、カテリイヌを探す為めに今日の巴里祭の雑沓の中を駆け廻りたいような衝動にかり立てられた。また心の一方ではあまり空漠とした欲望を広い巴里に持ちあぐむ自分にあきれ返って、やけに酒でも飲みに連れの二人を誘うと立止まった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――此の|老ぶれ《ビューコン》餓鬼!。」
[#ここで字下げ終わり]
 まだ初心《うぶ》な娘の声をわざと蓮《はす》ッ葉《ぱ》にはしらせてジャネットが一人の男に叫んでいるのだった。そして其の男の手に持っていた風船玉を引ったくった。男は風船玉を奪い返すようなふりをしながらジャネットの手首を掴え、それから強い力で自分の方へ、くるりと廻して左に抱えてしまった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――およしってば、連れがあるんだよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 流石に人中を憚《はばか》ってジャネットは羽がいじめの下でわめいた。――わめき乍らジャネットが新吉の方へ救いを求めるように手を出したので、その方向を辿って男は新吉を見つけると、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――青二才だな。」
[#ここで字下げ終わり]
 そう言って女を離した。それから新吉の傍まで来るとちょいと顔を覗いて、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――おまえ西班牙人《スパニッシュ》か、しっぽりとやんな。」
[#ここで字下げ終わり]
 巌丈な手で新吉の肩を痛いほど叩いて彼は行き過ぎた。中年過ぎた鬚《ひげ》の削《そ》りあとが青い男で、頬や眉の附根に脂肪の寄りがあり、瘤《こぶ》の寄ったような人相だが、どこか粋《いき》でどっぷりと湛《たた》えた愛嬌があった。新吉はわれを忘れて見送った。あれ程の年をしながら青年のように女に対して興味が充実してる男が羨《うらや》ましかった。新吉のようにもう夢のほか感情の歯の力を失ったものは彼のような男にすれ違っただけで自分の青白い寂寥《せきりょう》が感じられた。
 ジャネットはと見ると人混みに紛《まぎ》れ行く男の姿をいつまでも見送りながら群集に押されて新吉のそばまで来た。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あたし今日、モンマルトル一のジゴロに声をかけられたのよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 そう言って彼女はやっぱり人に押されながら鏡を取り出して自分の風姿を調べた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あんたさえ居なかったら今日一日、あの人に遊ばせて貰えたかも知れなかったわよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼女の声には真実少し卑しい恨みがましい調子があった。すると彼女から遊離して居た新吉に急に反撥心が出て来た。彼は手荒くジャネットの露出《むきだ》しの腕を握って二三度|揺《ゆす》ぶった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あたしと仲好くするんだ。またと他の男に振り向きでもすると承知しないよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 すると不思議にジャネットは素直になり手に風船玉を持ち乍ら新吉の腕に抱えられにっこり彼の顔を見上げて笑った。
 其所へ一人で行き過ぎて、はぐれてしまったベッシェール夫人が戻って来た。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あら、まだこんな所に居たの。仲好くするのもいゝが、あたしに内緒の相談だけは御免よ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉は夫人がひどく突然に自分の前に現れたのに眼を見張った。平常の巴里の優雅さを埋めかくして居る今日の祭の馬鹿騒ぎの中にベッシェール夫人は本当の巴里其のものゝ優雅さで新吉について歩いて居るのだ。新吉は夫人の心根がいとおしくなって来た。


 人々の気の付かないうちに空は厚く曇ってしまって雲の裾とも思える柔かい雨が降り出した。バスチイユの広場に、やゝあわてた混雑が起る。並んでいる小さい屋台店が急いで店をしまいかけるのもあれば、どうしようかと判断し兼ねて居るのもある。香具師《やし》の力持ちの夫婦は肥った運動服のかみさんを先に立てゝ、のそ/\キャフェの軒の下に避難しに行く。その後に残した道のはたの大きな鉄唖鈴《てつあれい》を子供達が靴で蹴っている。
 広場の中央と、遥か離れた町の片側とに出来ている音楽隊の屋台では却ってじゃん/\激しい曲を吹奏し出した。其の前で踊っている連中も雨を結局よい刺戟にして空を仰いで馬鹿笑いしたり、ひょうきんに首を縮めたりして調子づいて揉み合っている。傘をさして落着いて踊っている一組に、通りかかりの人がまばらに拍手を送る。
 電車の軋《きし》る音、乱れ足で行き違う群集の影。たそがれの気を帯びて黒い一と塊りになりかけている広場を囲む町の家々に燦爛《さんらん》と灯がともり出した。
 また疲れて恐迫症さえ伴う蒼ざめた気持ちになって新吉は此処まで来た。新吉のもはや何を想い、何に心をひかれる弾力も無くなって見える様子にベッシェール夫人は惨忍な興味を増した。老女の変態愛は自分も相当に疲れて居ながら新吉を最後の苧《お》がらのように性の脱けたものにするまで疲れさせねば承知出来なくなって居た。それにはジャネットの肉体的にも遊び廻るほど愈々《いよいよ》冴えて来る若さを一層強く示嗾《しそう》して新吉をあおりたてることに努める必要があると思った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――どう※[#感嘆符疑問符、1−8−78] この先きの貧乏街へ入って最後に飲んだり、踊ったりしない※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すっかり平民的になって。」
[#ここで字下げ終わり]
 ジャネットに取ってもリサの言い付けで今日一日新吉について廻った使命の果ての結局の舞台が入用だった。彼女は猶予なく返事した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――奇抜ね。それが本当に面白いわ。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は新吉の腕を引き立てゝ人を掻き分けながらルュ・ド・ラップの横町へ入って行った。
 ただ燻《くす》ぼれて、口をいびつに結んで黙りこくってしまったような小さい暗い家が並んでいた。漆喰壁《しっくいかべ》には蜘蛛の巣形に汚点《しみ》が錆《さ》びついていた。どこの露地からも、ちょろ/\流れ出る汚水が道の割栗石の窪《くぼ》みを伝って勝手に溝を作って居る。それに雨の雫《しずく》の集りも加わって往来にしゃら/\川瀬の音を立てゝいた。ベッシェール夫人は後褄を小意気に摘《つま》み上げ、拡げた傘で調子を取り、二人から斜めに先に立って歩いて行った。立籠めた泥水の臭いとニンニクの臭いとを彼女の派手な姿がいくらか追い散らした。此の垢でもろけた家並の中に、まるで金の入歯をしたようにバル・デ・トロア・コロンヌだとか、バル・デ・ファミイユだとか、メイゾン・バルとか言うような踊り場が挟まっていた。ニスで赧黒く光った店構えに厚化粧でもしたような花模様が入口のまわりを飾っていた。毒々しいネオンサインをくねらせた飾窓の硝子には白墨で「踊り無料」と斜に走り書きがしてあった。之れは巴里祭の期間中これ等の踊り場がする、お得意様への奉仕であった。其の代りに彼等は酒で儲けた。どの踊り場の前にも吐き出す、乱曲を浴びながら肩を怒らしてズボンへ両手を突込んだ若者と、安もので突飛に着飾った娘達とが、ごちゃ/\していた。
 よく見ると彼等はふざけ合ったり、いじめ合ったり、どこへ行こうか迷ったりしている。斯《こ》んな場所に不似合な程、見優りのするベッシェール夫人がその踊り場の一つのブウスカ・バルへ傘をつぼめてつか/\と入って行くと彼等は話声を止めて振返った。そうして眼につく美少女のジャネットが物慣れた様子で新吉を引張るようにして次に入って行くと彼等の中の二三人は物珍らしさにあとを蹤《つ》けて入った。
 中はあんまり広くなかった。酒台《スタンド》に向き合って二列ほど裸テーブルと椅子の客席が取ってあった。其所を通って奥の突当りに十三坪ほどの踊り場があった。その周囲にも客テーブルが一列だけ並んでいた。三人の楽師《がくし
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