ヌへ向けてゆるやかな勾配を作っている花壇の庭が晴々しく眺められた。庭の勾配が尽きて一筋の長閑な橋になり、橋を跨《また》いでいる巨人の姿に見えるエッフェル塔は河筋の水蒸気のヴェールを越しているので、いくらか霞んで見える。振り仰いで見ると流石に大きかった。太い鉄材の組合せの縞が直《じ》きに平らな肌になり、細く鋭く天を衝《つ》く遥かな上空の針の尖《さき》に豆のような三色旗が人を馬鹿にしたようにひらめいていた。再び眼を地に戻して河筋を示す緑樹の濃淡に視線が辿りつくと頭がふら/\した。新吉は言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――まだ、やっと此所までしか来てないじゃありませんか、すこし休んで、それから、ちっとはスケジュールを決めて町を見物しようじゃありませんか。」
――子供のようになってアイスクリームを飲みましょうよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 白にレモン色の模様をとった屋台車を置いてアイスクリーム売りのイタリー人が燕のひるがえるのを眺めていた。
 新吉と夫人が往来に真向きに立ちはだかって互に顔で、おどけ合いながらアイスクリームの麩のコップを横から噛みこわしていると、二人が上って来た坂の下から年若な娘が石畳の上へ濃い影を落しながら上って来た。娘は二人の傍へ来ると何のためらう色もなく訊いた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――バスチイユの広場へ行くのはどう行ったらいゝでしょう。」
[#ここで字下げ終わり]
 娘の言葉にはロアール地方の訛《なま》りがあった。手に男持ちのような小型の嚢《ふくろ》を提げていた。
 夫人は娘の帽子の下に覗いている巻毛にまず眼をつけ、それから服装《なり》を眼の一掃きで見て取った。夫人の顔には惨忍な好奇心がうねった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ははあ、おまえさん巴里祭を見物しなさるのね。此所からバスチイユなんて、まるで反対の方角よ。――あんた、いつ巴里へ出て来なさった。」
――半年ほどまえですの。」
――連れて歩るいて呉れるいゝ人はまだ出来ないの。」
――あら、いやだわ。」
――いやだわじゃないことよ。そんないゝきりょうをしている癖に。」
[#ここで字下げ終わり]
 巴里祭といえば誰に何を言おうが勝手な日なのだ、そうすることが寧ろ此の日に添った伝統的な風流なのだ。
 娘は白痴じゃないかと思われるほど無抵抗な美しさ、そして、どこか都慣れたところがあった。新吉はてっきりリサの送った娘と見て取った。そして夫人となれ合いの芝居ではないかと警戒し始めたが、夫人はどうしても娘に始めて逢った様子である。そして好奇心で夢中になっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――おまえさん、今日のお小遣いいくら持ってなさる。」
――八十フランばかり。」
――おまえさん恰好の娘さんの一人歩きには丁度いゝ額《たか》だね。」
[#ここで字下げ終わり]
 夫人は分別くさい腕組みをして娘を見下ろした。新吉は夫人に気取られる前に先手に出て娘に言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――もしよかったら僕達と今日一緒に遊んで歩かないか。勿論費用は全部こっち持ちだよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 娘が下を向いて考えてる間に夫人は新吉に奥底のある眼まぜをして見せた。新吉は度胸を極《き》めて、それに動ぜぬ風をした。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――奥さん僕は此の娘を連れて歩きますよ。あなたと二人では、ひょっと喧嘩でも始めるといけませんからね。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉の日本人らしい決定的な強さに圧された。その上夫人は娘の前で気前を見せる虚栄心も手伝って案外あっさり承知した。新吉は夫人のしつこさに復讐したような小気味よさを感じたが、年若な娘の放散する艶々《つやつや》しい肉体の張りに夫人の魅力が見る/\皺まれて行くのも気の毒だった。
 タクシーでオペラの辻まで乗りつけて、そこからイタリー街へ寄った、とあるキャフェで軽い昼食を摂りながら娘に都大路の祭りの賑《にぎわ》いを見せていると、新吉はいろ/\のことが眼の前の情景にもつれて頭に湧いた。あのトロカデロの坂道の崖の下あたりにリサが潜んでいて娘に自分達の後を追わせたのではなかろうか。それにしても、よくもこう注文にふさわしい娘を探し出したものだ。娘はどういう風《ふう》にリサから話し込まれたか知らないが、芝居をしているとも見えぬ程の自然さでこの芝居をこなしている。芝居をしながら、ちっとも本質を覆《おお》わない身についている技巧はまったくフランス娘の代表とも思われるほど本能の味わいを持って居る。娘はフォークの尖にソーセージの一片と少しのシュークルートの酢漬けの刻《きざ》みキャベツをつっかけて口に運びながら食卓に並んだ真中の新吉を越して夫人に快濶《かいかつ》に話している。新吉はだんだん夫人と娘の様子を見て居るうちに夫人とも此の娘の出現がかねて何かの黙契《もっけい》を持って居たのではなかろうかとさえ思われ始めた。
 リサと友達の此の夫人が、或いは昨日か昨夜かのリサとの謀計で此の娘が出現したのではなかろうか。それにしても娘は夫人に初対面のように語る。名をジャネットと言って巴里の近郊に沢山ある白粉工場で働いて居るはなし。国元はロアールの流れの傍で、飼兎の料理と手製の葡萄酒で育ったはなし。それを新吉にも聞えるように娘は話して居るのである。
 娘は少しおかめ型の顔をしてマネキン人形のような美しさに整《ととの》い過ぎているようだが、頬や顎のふくらみにはやっぱり若さの雫《しずく》が滴《したた》っていた。彼女は食事中にやれ芥子《からし》の壺を取って呉れの、水が飲みたいのと新吉に平気で世話を焼かせ、あとはまた新吉を越してベッシェール夫人と話し続けて行く。新吉は苦笑した。
 なりは大きいがまだ子供だ。此の子供の何処に感情の引っかゝりがあるのだ。リサは余りに若いのを選むのに捉われ過ぎた。新吉はジャネットの均一ものゝ頸飾りをちょっとつまんで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――これよく似合うね。君に。」
――でも、これはほんの廉《やす》ものなの。こちらのマダムのなんか見ると、まったく悲しくなるわ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉はこの娘はまだ十七に届いていない年頃なのに相当、人の機嫌をとることにも慣れて居るのに驚いた。夫人も上機嫌で娘に言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あんた、せい/″\此のムッシュウの気に入るように仕掛けて、あたしのような首飾りを買ってお貰いなさいよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉の日本の妻にさえ嫉妬する夫人が眼の前の此の娘の出現にこんなに無関心で居られる――娘といい、夫人といい、巴里の女の表裏、真偽を今更のように新吉は不思議がった。遊戯のなかに切実性があり、切実かと思えば直ぐ遊戯めく。それにしても上流中流の人達が留守にした巴里の混雑のなかに、優雅な夫人と、鄙《ひな》びて居ても何処か上品な娘を連れた新吉の一行は人の眼についた。
 昼の食事の時刻も移ったと見えて店内の客はぽつ/\立上って行く。男女二人ずつ立って行く姿が壁鏡に背中を見せる。給仕《ギャルソン》がブリオーシュ(パン菓子)を籠に積み直してテーブルに腹匍《はらば》いになって拭く。往来の人影も一層濃くなって酒に寛《くつろ》げられた笑い声が午後の日射しのなかに爆発する。群衆の隙から斜めに見えるオペラの辻の角のカフェ・ド・ラ・ペイには双眼鏡を肩から釣り下げたり、写真機を持った観光の外人客が並んで、行人に鼻を突き合せるほど道路にせり出して、之れが花の巴里の賑いかと気を奪われたような、むずかしい顔をして眺めて居る。行ったり来たりして、しつこく附纏う南京豆売り、壁紙売り。角のカフェ・ド・ラ・ペイとこっちのイタリー街の角との間は小広く引込んだ道になっていて、其の突当りがグランド・オペラだが此所からは見えない。たゞその前の地下鉄の停留所の階段口から人の塊が水門の渦のようになって、もく/\と吐き出されるのが見える。
 暫らく雲が途絶えたと見え、夏の陽がぎらぎら此の巷《ちまた》に照りつけて来た。キャフェの差し出し日覆いは明るい布地にくっきりと赤と黒の縞目を浮き出させて其の下にいる客をいかにも涼しそうに楽しく見せる。他の店の黄色或いは丹色の日覆いも旗の色と共に眼に効果を現わして来た。包囲した鬨《とき》の声のような喧騒に混って音楽の音が八方から伝わる。
 新吉は向う側の装身具店の日覆いの下に濃い陰に取り込められ、却《かえ》って目立ち出した雲母の皮膚を持つマネキン人形や真珠のレースの滝や、プラチナやダイヤモンドに噛みついているつくりものゝ狆《ちん》や、そういう店飾りを群集の人影の明滅の間からぼんやり眺めて、流石に巴里の中心地もどことなくアメリカ人の好みに佞《おもね》ってアメリカ化されているけはい[#「けはい」に傍点]を感じた。けば/\しい虎の皮の外套を着たアメリカ女。早昼食《クイックランチ》。「御勘定は弗《ドル》で結構でございます。」と書いた喰べ物屋のびら[#「びら」に傍点]。筋向いのフォードの巴里支店では新型十万台廉売の広告をしている。
 食後の胃のけだるさがそうさせるのか新吉の不均衡な感情は無暗に巴里の軽薄を憎み度くなってじれ/\して来た。その時ジャネットが彼を顧向《ふりむ》いて夫人との間の話に合図を打たせようと身体を寄せて言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――どう。そうじゃなくて。ムッシュウ。」
[#ここで字下げ終わり]
 しぼり立ての牛乳にレモンの花を一房投げ入れたような若い娘の体の匂いが彼の鼻を掠めた。すると新吉の血の中にしこりかけた鬱悶《うつもん》はすっと消えて、世にもみず/\しい匂いの籠った巴里が眼の前に再び展開しかけるのであった。新吉はその場にそぐわない、妙にしみ/″\した声で返事をした。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ほんとうにね。そうだとも、マドモアゼル。」
[#ここで字下げ終わり]
 そして彼の憧憬的になった心にまたしてもカテリイヌの追憶が浮ぶのだった。そうだ彼女に遇いたいものだ。今日という日はその為めに待ち焦《こが》れていた日ではないか。彼はそう思いながら、ひとりでにジャネットの丸い肩に手をかけた。何時《いつ》だったか、どの女だったか、彼の両肩に柔い手を置き、巴里祭のはなしをして呉れた感触を思い出した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ほんとにその日は若いものに取っては出合いがしらの巴里ですの。恋の巴里ですの。」
[#ここで字下げ終わり]
 両肩の上に置いた其の女の柔い掌の堪《こた》え、そして、かつてカテリイヌを新吉が抱えたときのあの華やかな圧迫。触覚の上に烙《や》きつけられた昔の記憶が今、自分が手を置いて居る若い娘の潤《うるお》った肩の厚い肉感に生々しく呼び覚まされると新吉の心は急に掻きむしられるように焦立た[#「た」に「ママ」の注記]って来た。思わず呼吸が弾《はず》んで来るのだった。にわかに弾《はじ》いたように見ひらいた彼の瞳孔には生気の盛り上るイタリー街の男女の群の揉《も》み合う光景が華々しく映った。太陽の熱に脹《ふく》れ上る金髪。汗に溶ける白粉の匂い、かん[#「かん」に傍点]ばかりで受け答えしている話声。女達の晴着の絹の袖をよじって捲きつけている男の強い腕。――だが結局新吉の遠い記憶と眼前の実感は一致しなかった。新吉の頭は疲れて早くどこかの人群《ひとごみ》のなだれに押されて行って、其処で見出して思わず抱き合ってしまう現実のカテリイヌを見出したいと思った。傍の二人の女は其の時までの道連れだ。どれも向うからついて来た女達だ。自分の知ったことではない。この女達にあんまりこだわらないことにしよう。彼は弾んだ呼吸をすっかり太息《といき》に吐き出すと、ベッシェール夫人は冗談のように言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング