そうに帰りかけたが蓋をした灰殻壺の中の憐れっぽい子雀の籠った鳴声に気付くと流石《さすが》に戻って、
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――可哀想なことをしたのね。これあたし頂戴《いただ》いて行きますわ。」
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壺のまゝ雀を持って夫人は出て行った。夫人の後姿を見送って新吉はひとり小声で「うるさい婆さんだな」と云った。だが新吉は美貌な巴里女共通の幽《かす》かな寂《さ》びと品格とが今更夫人に見出され、そして新吉はまた、いつも何かの形で人を愛して居ずにいられないこの種の巴里女をしみ/″\と感じられるのだった。
眼を半眼、開いたまゝ鉛の板のように重苦しく眠り込んでいた新吉は伊太利《イタリー》の牧歌の声で目覚めた。朝の食事が出来たので、通い女中ロウジイヌが蓄音器をかけて行って呉れたのだ。野は一面に野気の陽炎《かげろう》。香ばしい乾草の匂いがユングフラウを中心に、地平線の上へ指の尖《さ》きを並べたようなアルプス連山をサフラン色に染めて行く景色を、はっきりと脳裡に感じながら、新吉はだん/\意識を取戻して行った。牧歌が切れて濃いキャフェが室内の朝の現実のにおいとなって強く新吉の鼻に泌《し》みて来た。新吉は昨晩レストラン・マキシムで無暗にあおったシャンパンの酸味が爛《ただ》れた胃壁から咽喉元へ伝い上って来るのに噎《むせ》び返りながらテーブルの前へ起きて来た。吐気《はきけ》に抵抗しながら二三杯毒々しいほど濃い石灰色のキャフェを茶碗になみ/\と立て続けに飲んだ。吐気はどうやら納って、代りに少し眩暈《めまい》がするほどの興奮が手足へ伝わり出した。空は晴れている。昨日自分が張り渡した窓の装飾の綾模様を透して向う側の妾町の忍んだような、さゝやかな装飾と青い空の色と三色旗の鮮やかな色とが二つの窓から強い朝日に押し込まれて来たように、新吉の眼を痛いほど横暴に刺戟する。立たなければよくも見分けられぬが恐らくベッシェール夫人の屋根越しのエッフェル塔も装飾していることだろう。
新吉は此の装飾の下に雑沓《ざっとう》の中でカテリイヌを探す自分のひと役を先ず頭に浮べたが次にリサがまたどういう工夫で今日の祭の街で自分に新らしい娘を送り届けるのか。自分につきまとうベッシェール夫人とそれがどう縺《もつ》れるか。考えると頭がすこし憂鬱になった。
ゆうべはマキシムで偶然ベッシェール夫人の最後の夫ジョルジュに遇った。彼は新吉がベッシェール夫人の隣へ引越して来て間もなく夫人と喧嘩して出て行ったので、新吉とはたいした馴染《なじみ》もなかったが新吉を見付けると懐かしそうに寄って来て無暗と酒を勧めた。彼は夫人の家にいたときからみると、ずっと若返ったようだ。彼は新らしい妻だといって若い女を紹介した。その女はたゞ若くて十人並の器量で、はしゃいでいるような女だった。何処か間の抜けている性質のようにも見えた。それで二人は大ぴらでベッシェール夫人の話をした。ジョルジュは新吉を酔わせて夫人の悪口でも言わせようという企みが見えた。新吉は其の手には乗らなかった。すると遂々彼は夫人に未練を残していることを白状して、
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――あんな洒脱《しゃだつ》な女はありませんよ。あれと暮して居ると、本当に巴里と暮しているようですよ。六日間も自転車競争場の桟敷で、さばけた形《なり》をして酒の肴のザリ蟹を剥いてるところなぞ一緒にいてぞっとする程好かったですよ。」
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こんな言葉を連発するようになった。だがしまいには彼は問わず語りにこんな事を言った。
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――たゞあの女の鋏《はさみ》がね。あの鮫《さめ》の腹いろに光る鋏がね。あなたもお隣りなら随分気をおつけなさい。もっともあの鋏の冴えが、あの女の衣裳芸術の天才の光なんだが……なんにしても男をいじめては男に逃げられるのが気の毒な女さ。」
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彼は終りを独言にして溜息をして訣《わか》れて行った。
そういうこともあったので、ゆうべ新吉は折角の自分の巴里祭を夫人に乱されることを恐れて、どうして夫人を出し抜いたものかと、うと/\考えながら寝た。家へ帰らずにしまえばそれまでだが、それもなんだか卑怯に思えるし、夫人に気づかれて後の祟《たた》りも恐ろしかった。出来ることなら男らしくきっぱりと断って、あすの朝は一人で自分の家を出て行きたいものだと考え定めながら、いつか眠りに陥ったのであった。だが、段々部屋中を華やかに照らしだす日の光を眺めるとカテリイヌも、リサの送る娘も、ベッシェール夫人も全《す》べて、そんな事はどうでもよくなって来た。たゞ早く町の割栗石の鋪道に固いイギリス製の靴の踵《かかと》を踏み立てゝ西へ東へ歩き廻りたい願いだけがつき上げて来た。
顔を洗って着物を着代えているとどこからともなく古風で派手なワルツが凪《な》いだ空気へ沖の浪のなごりのように、うねりを伝えて来る。後からそれを突除けて、ジャズが騒狂な渦の爆発の響を送る。祭は始まった。表通りを大人連のおしゃべりの声。子供達の駆けて行く足音。
白い帽子を手に取って姿鏡の前に立って自分の映像に上機嫌に挨拶して新吉は、其の癖やはり内心いくらか憂鬱を曳きながら部屋を出た。入口の門番《コンシェルジュ》の窓には誰も居なくて祭の飾りの中にゼラニウムの花と向いあって籠の駒鳥が爽《さわ》やかに水を浴びていた。
割栗石の鋪石[#「石」に「ママ」の注記]へ一歩靴を踏み出す。すると表の壁の丁度金鎖草の枝垂《しだ》れた新芽が肩に当《あた》るほどの所で門番《コンシェルジュ》のかみさんと女中のロウジイヌとがふざけて掴み合っていたのが新吉の姿を見ると急に止めて笑いながら朝の挨拶をした。それから隣のベッシェール夫人の家に向って、
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――奥さん。うちのムッシュウがお出かけですよ。」
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と声を揃えてわめいた。
ちゃんと打合せが出来ていたものと見え、すっかり着飾ったベッシェール夫人は芝居の揚幕の出かなんぞのように悠揚《ゆうよう》と壁に剔《く》ってある庭の小門を開けて現われた。黒に黄の縞の外出服を着て、胸から腰を通して裳へ流れる線に物憎い美しさを含めている。夫人は裏にちょっと鳥の毛を覗かせたパナマ帽の頭を傾げて空の模様を見るような恰好をした。飽《あく》まで今日の着附けの自信を新吉に向って誇示しているらしかったが、やがて着物と同じ柄の絹の小日傘をぱっと開くと半身背中を見せて左の肩越しに新吉の方へ豊かな顎を振り上げた。眼は今日一日のスケジュールに就いて何の疑いをも持っていない澄んだ色をしている。遂々掴まったか――。新吉はそう思いながら夫人の傍へ寄って行って思わずいつもの礼儀どおり左の腕を出す。夫人は顎を引き、初めて笑った。
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――若い奥さんではなくてお気の毒ね。」
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と言ったが右の手を新吉の出した左の腕にかけるとまたさあらぬ態度になり、胸を張って歩き出した。新吉は夫人の顔にうっすり刷《は》いたほのかな白粉の匂いと胸にぽちんと下げているレジョン・ドヌールの豆勲章を眺めて老美人の魅力の淵の深さに恐れを感じた。
モツアルトの横町からパッシイの大通りへ突当ると、もうそこのキャフェのある角に音楽隊の屋台が出来ていて、道には七組か八組の踊りの連中が車馬の往来《おうらい》を止めていた。日頃不愛想だという評判のキャフェの煙草売場の小娘が客の一人に抱えられていた。まだ昼前なので遠くの街から集まって来た人達より踊り手には近所の見知り越しの人が多かった。それ等の中には革のエプロンの仕事着のまゝで買物包みを下げた女中と踊っている者もあった。彼等は踊りながら新吉と夫人に目礼した。キャフェの椅子は平常よりずっと数を増して往来へ置き出されていた。一しきり踊りが済むと狭く咽喉のようになった往来へ左右から止まっていた自動車や馬車がぞろ/\乗り出した。街路樹のプラタナスの茂みの影がまだらに路上にゆらめいた。
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――すっかりお祭りね。」
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老美人は子供のようなはしゃぎかたさえ見せて、喧騒の渦の音が不安な魅力で人々を吸い付けている市の中心の方角へ、しきりに新吉を促《うなが》し立てた。
晴れた日と鮮かな三色旗と腕に抱えている老美人との刺戟に慣れて来ると新吉は少し倦怠《けんたい》を感じ出した。すると歩調を合せて歩いている自分等二人連れのゆるい靴音までが平凡に堪えないものになって新吉の耳に響いた。
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――しつこい婆につかまって今日一日無駄歩きしちまうのだ。」
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弾力を失っている新吉の心にもこの憤りが頭を擡《もた》げた。キャフェの興奮が消えて来た新吉の青ざめた眼に稲妻形に曲るいくつもの横町が映った。糸の切れた緋威《ひおど》しの鎧《よろい》が聖アウガスチンの龕《トリプチック》に寄りかゝっている古道具屋。水を流して戸を締めている小さい市場。硝子窓から仕事娘を覗かしている仕立屋。中産階級の取り済ました塀。こんなものが無意味に新吉の歩行の左右を過ぎて行った。新吉は子供の時分奮い立った東京の祭のことを思い出した。店のあきないを仕舞って緋の毛氈《もうせん》を敷き詰め、そこに町の年寄連が集って羽織袴で冗談を言いながら将棊《しょうぎ》をさしている。やがて聞えて来る太鼓の音と神輿《みこし》を担ぐ若い衆の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬《ちりめん》の揃いの浴衣の八ツ口から陽《ひ》にむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。
気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。
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――あたしね。九つの歳の巴里祭に母に連れられてルュ・ラ・ボエシイを通るとね。ベレを冠った鬚《ひげ》の削《そ》りあとの青い男に無理に掴まって踊らされてね。その怖ろしさから恋を覚え始めたのよ。今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何んだかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」
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横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光る兜《かぶと》のうしろに凄艶《せいえん》な黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。
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――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」
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夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、
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――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」
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と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、
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――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」
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と言って夫人は、更《あらた》めて新吉の頬に軽く接吻した。新吉は斯《こ》ういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。
目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆に遮《さえぎ》られ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれを掠《かす》めて規則正しくセー
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