。巴里祭《キャトールズ・ジュイエ》にはあたしが見つけてあげたその娘をぜひ一緒に連れてお歩るきなさい。」
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リサはがっちりした腕で新吉の腕を自分の脇腹へ挟みつけながら言った。新吉はステッキも夏手袋も自分が引受けて持っている。
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――…………
――いくら処女心《ヴァジン・ソイル》が恋しいからといって、その昔のカテリイヌの面影を探しながらお祭りを見て歩るこうなんて、そりゃあんまり子供っぽい詩よ。そんなことであんたのようなすれっからしに初心《うぶ》な気持ちの芽が二度と生えると思って。」
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新吉の酔って悪るく澄んだ頭をアレギザンドル橋のいかつい装飾とエッフェル塔の太い股を拡げた脚柱とが鈍重に圧迫する。新吉はそれらを見ないように、眼を伏せて言った。
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――おい後生だから、もう一|音階《オクターヴ》低い調子で話して呉れないか。その調子じゃ、たとえ成程とうなずきたいことも先に反感が起ってしまうよ。」
――あら。そんなにひどい神経になっているの。まるで死ぬ前のフェルナンドのようだわ。」
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リサは闇の中に顔を近づけて覗き込みながら言った。さも哀れに堪えないように中年近い女の薄髭の生えた、厚身の唇が新吉の頬に迫って来たので新吉は顔を避けた。
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――いよ/\もってあたしの探したあの娘をあなたのものにすることをお勧めするわ。何事も女で育って行く巴里では、たとえ女に中毒したものも、それを癒すにはやっぱり女よ。もしあたしがもう七ツ八ツ若かったらこんな手間暇は取らせませんのにね。」
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リサは今しがた新吉に意見したのとはあべこべなことを平気で言った。二人はアレギザンドル橋を渡った。春秋に展覧会の開かれるグラン・パレーの入口は真黒く閉《しま》っていて、プチ・パレーの方に波蘭《ポーランド》の工芸品展覧会の雪の山を描いたポスターが白い窓のように几帳面《きちょうめん》な間隔を置いて貼られてある。婆娑《ばさ》とした街路樹がかすかな露気を額にさしかけ、その下をランデ・ヴウの男女が燕のように閃いてすれ違う。新吉は七八年前、五色の野獣派の化粧をしてモンマルトルのペットだったリサを想い泛べた。がっちりした彼女の顔立ちにそれがよく似合った。当時彼女はあるキャフェで新吉からカテリイヌに対する悩みを聴いたとき新吉の鼻をつまんで言った。
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――そんな恋はありきたりよ。愛なんかちっとも無い二人同志の間に技巧で恋を生んで行くのが新しい時代の恋愛よ。」
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彼女が裸に矢飛白《やがすり》の金泥を塗って、ラパン・ア・ジルの酒場で踊り狂ったのは新吉の逢った二回目の巴里祭《キャトールズ・ジュイエ》の夜であった。彼女は其の後だん/\奇嬌[#「嬌」に「ママ」の注記]な態度を剥いで持ち前の母性的の素質を現して来たが、折角同棲した若いフェルナンドに死なれてから男に対して全く憐れみ一方の女となった。
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――君もあの時分は元気だったなあ。」
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そう言うと流石《さすが》に彼女も悵然《ちょうぜん》としたらしい様子のまゝしばらく黙った。二人は並木のシャン・ゼリゼーまで出たが闇一筋の道の両はずれに一方はコンコールドの広場に電飾を浴びて水晶の花さしのように光っている噴水を眺め、首を廻らして凱旋門通りの鱗《うろこ》のように立ち重なる宵《よい》の人出を見ると軽い調子になって彼女は言った。
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――無理のようだがそうすると、あんた決めておしまいなさいね。きっと結果がいゝから。そしたらあたしその娘を巴里祭の日に、まったく自然のようにあなたに遇わせてあげますから。あなたは只その日お祭りを楽しむ町の青年になって、朝自分の家を出なさるだけでいゝのよ。」
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そこでステッキと手袋を新吉に押しつけるとリサは簡単に、
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――ボン、ソワール。」
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と行きかけた。新吉が、
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――ちょいと待って呉れ給え。国元の妻のことに就いてすこし話したいんだが。」
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とあわてゝ言うと、リサは逞ましい腕を闇の中に振って指先を鳴らした。
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――もう、あんたのことはみんなその娘に譲りましたよ。」
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リサは男のように体を振り乍《なが》ら行って仕舞った。
明日の祭の用意に新吉も人並に表通りの窓枠へ支那提灯を釣り下げたり、飾紐《かざりひも》で綾《あや》を取ったりしていると、下の鋪石からベッシェール夫人が呼んだ。
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――結構。結構。巴里祭万歳。」
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新吉は手を挙げて挨拶する。
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――あなたのところに綺麗な国旗ありまして。若しなければ――。」
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そう言いさして夫人は門の中へ消えたが、やがて階段を上って来て部屋の戸をノックする。
新吉が開けてやると、しとやかに入って来て、
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――剰《あま》ったのがありますから貸してあげますよ。」
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それから屈托《くったく》そうに体をよじって椅子にかけて八角テーブルの上に片肘つきながら、新吉の作った店頭装飾の下絵の銅版刷りをまさぐる。壁の嵌《は》め込み棚の中の和蘭皿の渋い釉薬《うわぐすり》を見る。箔押《はくお》しの芭蕉布のカーテンを見る。だが瞳を移すその途中に、きっと、窓に身をかゞまして覚束なく働いている新吉の様子を油断なく覗っている。何か親密な話を切り出す機会を捉えようとじれているらしい。新吉はどたんと窓から飛下りて掌に握ったじゅう/\いう鳴声を夫人の鼻先に差出した。
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――小さい雀の子。」
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夫人は邪魔ものゝように三角の口を開けた子雀の毛の一つまみを握り取って煙草の吸殻入れの壺の中へ投げ込んでしまった。無雑作に銅版刷で蓋をする。
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――おちついて、あなた、そこに暫らく坐って下さらない。」
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新吉はちょっと左肩をよじって不平の表情をしてみたが名優サッシャ・ギトリーの早口なオペレットの台詞《せりふ》を真似て、
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――マダムの言いつけとあらば、なんのいなやを申しましょうや。茨の椅子へなりと。」
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と言ってきょとんと其所へ坐った。
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――いよ/\明日巴里祭だというので、いやにはしゃいでいらっしゃるね。さぞお楽しみでしょうね。」
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新吉はぎくっとした。情事に就いては彼女自身はもうすっかり投げているのに他人の情事に対する関心はまたあまりに執拗だ。それにリサと夫人とは古い知り合いだから、ひょっとしたらリサの自分に対する明日のたくらみでも感づいたのではないか。新吉は油断をせずにとぼけた。
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――あしたは世間並の青年になって手当り次第巴里中を踊り抜くつもりですよ。」
――そりゃ楽しみですね。国元の奥様のことを考えながら、その悩みをお忘れになりたい為めにね。」
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鸚鵡《おうむ》返しのように夫人はこう言った。新吉は的が外れたと思った。自分の今の心を探って見るに、国元の妻からの手紙が来て以来、其のおさな顔に白髪のほつれかゝった面影が憐れに感じ出されたには違いない。然しそれと同時に今は明日はじめて逢う未知の娘、リサの世話して呉れる乙女にもまた憐れを催している。自分のように偏奇な風流餓鬼の相手になって自分から健康な愛情の芽を二度と吹かして呉れようとする無垢《むく》な少女。だがそれよりも新吉が一番明日に期待しているのはやっぱりあのカテリイヌに何処かの人ごみで逢うことだ。リサは子供っぽい詩と罵ったが今の自分としてはどうしても巴里祭の人込みの中で、ひょっとしたら十何年目のカテリイヌ――恐らく落魄《らくはく》しているだろうが――にめぐり遇《あ》っていつか自分を順[#「順」に「ママ」の注記]致して奴隷のようにして仕舞った巴里に対する憎みを語りたい。自分を今のようなニヒリストにしたのは今更、酒とか女とか言うより、むしろ此の都全体なのだ。
此の都の魅力に対する憎みを語って語り抜いて彼女から一雫《ひとしずく》でも自分の為めに涙を流して貰ったら、それこそ自分の骨の髄《ずい》にまで喰い込んでいる此の廃頽《はいたい》は綺麗に拭い去られるような気がする。そしたら此の得体の解らぬ自分の巴里滞在期を清算して白髪のほつれが額にかゝる日本の妻のもとへ思い切りよく帰れよう。だがそれはまったく僥倖《ぎょうこう》をあてにしている、まるで昔の物語の筋のように必然性のないものゝようだ。然しこの僥倖をあてにする以外に近頃の自分は蘇生《そせい》の方法が全く見つからなかった。こうなるとあの建築学校教授が建築場で不慮の怪我で即死して、娘はエジプトへ行ってあの卒業生と結婚したとかしないとか噂だけで、行方が判らなくなったり、近頃やっと巴里にまたいるらしいという噂を突きとめたそれ以上のことが判らないのがまだ自分の不運の続きのように思え、また判らないことが却《かえ》って折角たゞ一つ残って居る美しい夢を醒さないでいて呉れる幸福のように思えた。
新吉が金槌をいじりながら考え込んでいるのを見て夫人は意地悪くねじ込むような声で言った。
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――あたったものだから黙っていらっしゃる。あたしは妙な女ですからそのつもりで聴いて下さいな。あたしあなたが只の遊び女と出来たのかなんかなら何とも思いませんの。けれど国元の奥さんを想い出すような親身な気持ちになった男の方にはお隣に住んでいて、じっとして居られませんの。あたしは寡婦《やもめ》ですからね。正直に白状すればとてもやきもちが妬《や》けますの。あなたのところへ奥さんの手紙が来た翌日からあなたの御様子が変ったように見えて。御免なさいな、病的でしょうか。でも仕方がないわ。正直に言わなけりゃ、もっとやきもちが、ひどくなりそうなの。つまりあなたは奥さんの所へ帰る前に最後の巴里祭を見て行き度いために巴里に今年は残ったのでしょう。喰いとめなけりゃ気が済まないわ。とても、明日の巴里祭をあなたに面白くして奥さんの所へなんか帰さない工夫をしなければならないわ。それで明日はあたしあなたと一緒について巴里祭に行くつもりよ。お婆さんと一緒じゃお気の毒だけれど。然しこうなれば目茶よ。だからどうぞ其のおつもりでね。」
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夫人は冗談の調子で言って居るのだけれど、此の冗談には夫人の新吉への病的な関心が充分含まれて居るのだ。
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――兎に角、明日は私とお遊びなさい。私あなたの自由に遊んで上げます。気に入った女が見つかれば一緒に歩いても上げますわ。」
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夫人はこれも決定的な本心を含めた冗談で言った。
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――どうぞ、まあ、よろしくおたのみします。」
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新吉はつい弱気に言ってしまった。
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――朝、お迎えに来るわ。」
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夫人は遂々冗談を本当に仕上げて満足
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