巴里祭
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)追放人《エキスパトリエ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)裁縫|鋏《ばさみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぼつ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 彼等自らうら淋しく追放人《エキスパトリエ》といっている巴里幾年もの滞在外国人がある。初めはラテン区が彼等の巣窟《そうくつ》だったが、次にモンマルトルに移り、今ではモンパルナッスが中心地となっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――六月三十日より前に巴里を去るのも阿呆、六月三十日より後に巴里に居残るのも阿呆。」
[#ここで字下げ終わり]
 これは追放人《エキスパトリエ》等の口から口に伝えられている諺《ことわざ》である。つまり六月一ぱいまでは何かと言いながら年中行事の催物《もよおしもの》が続き、まだ巴里に実《み》がある。此の後は季節《セーゾン》が海岸の避暑地に移って巴里は殻《から》になる。折角《せっかく》今年流行の夏帽子も冠《かぶ》ってその甲斐はない。彼等は伊達《だて》に就いても効果の無いことは互にいましめ合う。
 淀嶋新吉は滞在邦人の中でも追放人《エキスパトリエ》の方である。だが自分でそう呼ぶことすらもう月並《つきなみ》の嫌味を感じるくらい巴里の水になずんでしまった。いわゆる「川向う」の流行の繁華区域は、皮膚にさえもうるさく感じるようになって、僅かばかりの家財を自動車で自分で運び、グルネルの橋を渡り、妾町と言われているパッシイ区のモツアルト街に引移った。それも四年程前である。彼の借りた家の塀には隣の女服装家ベッシェール夫人の家の金鎖草が丈の高い木蔓を分けて年々に黄色に咲く。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――今年の夏は十三日間おれは阿呆になる積りだ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉は訊かれる人があればそう答えた。諺を知っている追放人《エキスパトリエ》仲間は成程彼が珍らしく七月十四日のキャトールズ・ジュイエの祭まで土地に居残るつもりだなと簡単に合点《がてん》した。諺をまだ知らない同国人の留学生等には彼の方から単純に説明した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――今年はひとつ巴里祭を見る積りです。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼は彼が十五年前に恋したまゝで逢えなかったカテリイヌが此頃巴里の何処《どこ》かに居ると噂に聞き、そのカテリイヌを、夏に居残る巴里人の殆ど全部が街へ出て騒ぐ巴里祭の混雑のなかで見付けようとする、彼の夢のような覚束《おぼつか》ない計画などは誰にも言わなかった。
 新吉が日本へ若い妻を残して、此の都へ来たのは十六年前である。マロニエの花とはどれかと訊いて、街路樹の黒く茂った葉の中に、蝋燭《ろうそく》を束ねて立てたような白いほの/″\とした花を指さゝれた。音に聞くシャン・ゼリゼーの通りが余りに広漠として何処に風流街の趣《おもむ》きがあるのか歯痒《はが》ゆく思えた。一箇月、食事附百フランで置いて貰った家庭旅宿《パンション・ド・ファミイユ》から毎日地図を頼りにぼつ/\要所を見物して歩いているうちに新吉にとっては最初の巴里祭が来てしまった。町は軒並に旗と紐と提灯《ちょうちん》で飾られた。道の四辻には楽隊の飾屋台が出来、人々は其のまわりで見付け次第の相手を捉えて踊り狂った。一曲済むまでは往来の人も車も立止まって待っていた。新吉はさすが熱狂性の強い巴里人の祭だと感心したが、それと同時に自分もいつか誘い込まれはしないかと、胸をわく/\させ踊りの渦のところは一々避けて遠くを通った。
 一年足らずのうちに新吉はすっかり巴里に馴染《なじ》んでしまった。巴里は遂に新吉に故郷東京を忘れさせ今日の追放人《エキスパトリエ》にするまで新吉を捉えた。家庭旅宿《パンション・ド・ファミイユ》の留学生臭い生活を離れて格安ホテルに暫らく自由を味ってみたり、エッフェル塔の影が屋根に落ちる静かなアパルトマンに、女中を一人使った手堅い世帯持ちの真似をしてみたり、新吉は巴里を横からも縦からも噛みはじめた。巴里で若し本当に生活に身を入れ出したら、生活それだけで日々の人生は使い尽される。その上職業とか勉強とかに振り分ける余力はない。新吉はすっかり巴里の髄《ずい》に食い入ってモンマルトルの遊民になった。次の年の巴里祭前にも彼が留学の目的にして来た店頭装飾の研究には何一つ手を染めていなかった。その代りに二人の女が生活にもつれて彼のこゝろを綾取っていた。一人は建築学校教授の娘カテリイヌ。一人は遊《あそ》び女《め》のリサであった。それからまだその頃は東京に残して来た若い妻も新吉のこゝろに残像をはっきりさせていた。かえってそれが新吉の心にある為めに、フランスの二人の女の浸み込む下地が出来ていたとも言えよう。


 七月一日の午後四時新吉は隣の巴里一流服装家ベッシェール夫人の小庭でお茶に招ばれていた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――あなたに阿呆の第一日が来ましたわね。」
[#ここで字下げ終わり]
 ベッシェール夫人は新吉の茶碗に紅茶をつぎながら言った。彼女は中年を過ぎていて、もう自分が美人であることを何とも思わなくなっているような女だった。この夫人にそういう淡泊な処もあるので随分突飛な事や執《し》つこい目に時々遇っても新吉は案外うるさく感じないで済んでいる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――まったく七月に入って巴里にいると蒼空までが間が抜けたような気がしますね。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は漠然とした明るく寂しい巴里の空を一寸見上げて深い息をした。新吉は菓子フォークで頭を押えるとリキュール酒が銀紙へ甘い匂いを立てゝ浸み出るサワラを弄《もてあそ》びながら言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――一つは競馬が終ってしまったせいでしょうか。」
[#ここで字下げ終わり]
 ロンシャンの大懸賞《グランプリ》も、オートイユの障害物競馬も先週で打ちどめになった。
 ベッシェール夫人は藤のテーブルの上へ置いた紅茶の瓶口の下についている雫《しずく》止めのゴム蝶の曲ったのを、一寸《ちょっと》直し、濡れた指を手首に挟んだハンカチで拭くとその手をずっと伸して新吉の顎にかけて自分に真向きに向かせる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――さあ、そんな他所事《よそごと》ばかり言ってないでもう仰《おっ》しゃいな。なぜ今年は巴里祭に残っているかって言うことを。あたしはどうもたゞの残り方じゃないと睨《にら》んでいるのよ。様子だってふだんと違っていらっしゃるわ。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉は気が付いて見ると成程此のテーブルへ来て二十分ほど経つのに顔をうつ向けてばかりいた。今更あわてゝ眼を二つ三つ瞬いて空や庭を見廻す。刈り込んだ芝生に紅白の夏花が刺繍《ししゅう》のように盛上っている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――まるで子供ね。胡麻化すつもりでいらっしゃる。」
[#ここで字下げ終わり]
 夫人は狡《ずる》そうに微笑しながら暫らく新吉の顔を見詰めた。この青年に恋して居るというわけではない。然しこの青年がもし他の女に恋しているとでもなったら嫉妬から彼女の気持ちの向きがどう変るかも判らない。いびつな夫婦生活ばかりして来て、とうとうそれも破れて仕舞った此の老美人の悲運が他人の性愛生活にまで妙な干渉を始めるようになっていた。
 新吉は巴里の女に顎をつまゝれる事位いには慣れ切って居る。新吉は落着いて煙草ケースから一本取出して投げやりに口に銜《くわ》えた。夫人にも一本勧めて、それからライターで二人の煙草に火をつける。二人の口から吐く最初の煙のテンポが同じだったので、それがおかしかった。二人は笑った。寛《くつ》ろげられた気持ちに乗って夫人はこんなことを言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――どうしてもあなたが言わないなら、あたし嫌味なことを言いますよ。あんたまさかあたしの為めに巴里にお残りになるんじゃないでしょうね。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉は折角さら/\と説明出来そうに思えていた今の一瞬の気持ちをこの言葉で閉じられてしまった。もし夫人のこの悪ふざけの言葉に応答えする調子で自分の企てを話したら気持ちの筋道は飲み込ませられるかも知れないがその実質はとても覚束ない。それほど今度の思い立ちは情緒の肌理《きめ》のこまかいものだ。いまはむしろ小説なら表題を告げて置くだけの方がこの女の親しみに酬いる最も好意ある方法だ。それで新吉は砂糖を入れ足すのを忘れている甘味の薄い茶を一杯飲み乾すとこう言った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――マダム。僕はね。料理にしますとあまりに巴里の特別料理《スペシアリテ》を食べ過ぎました。それでね。普通の定食料理《ターブル・ドート》が恋しくなったんです。」
[#ここで字下げ終わり]
 夫人の調子は案の定、今口に出した思い付きの一言に煽《あお》られてそれ[#「それ」に傍点]者らしい飛躍を帯びて来た。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――じゃ。お祭りに出た女中さんでも引っかけ、世間並の若い衆になりたいとでもおっしゃるの。」
――まさかね。でも今あなたの仰しゃった世間並には何とかして帰り度いのです。この儘じゃ全く僕は粋な片輪者ですからね。」
[#ここで字下げ終わり]
 新吉のしんみりした物淋しさがあまり自然に感じられたので夫人の飛躍の調子がもとの地味にも落ち著けず、中途のところで鋭い鈍い浪を打った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――何にしても四年間金鎖草の花を分けて眺めさしてあげたあたしの好意に対しても万事打ち開けるものよ。いつでもいゝからね。」
[#ここで字下げ終わり]
 そんなさばけたもの言いをしながら夫人はぐっと神経質になって、新吉が帰ろうと立上りかけるときに門番がわざ/\此所まで届けて来た日本からの手紙を見ると、差出人は誰だかとくどく訊いた。新吉はそれが国元の妻からのものだと、はっきり答えた。


 新吉は部屋へ帰ると畳込みになって昼はソファの代りをする隅のベッドの上被《うわおお》いのアラビヤ模様の中へ仰向けにごろりと寝た。ベッシェール夫人のところで火をつけた二本目の煙草を挟んだ左の手に右の手を手伝わせて妻からの手紙の封筒を切った。いつもの通り用事だけが書いてあった。それは市会議員の選挙に関するもので、その人選は新吉の実家も中に含んで魚市場全体の利害に影響があった。
 新吉の留守中両親も歿《な》くなったあとの店を一人で預って、営業を続けている妻のおみち[#「おみち」に傍点]に取っては永い間離れていてこころの繋《つなが》りさえもう覚束なく思える新吉でもやっぱり頼みにせずにはいられなかった。彼女はそれで故国の事情にはうとくなっている夫から明確な指図は得られないのを承知でしじゅう用件だけ報じて来た。うっかり感情的のことを書いて、西洋へ行ってひらけた人になっている夫に蔑まれはしないかという惧《おそ》れもあった。彼女は手紙の文体を新吉の返事に似通わせてだん/\冷たく事務的にすることに努めた。新吉もその方を悦んで兎《と》も角《かく》彼女の手紙に一通り目を通すことだけはした。
 しかし今度の手紙には新吉に見逃されぬものがあった。それは文面の終《しま》いの方に同じ淡々とした書き方ではあるがこういうことが書いてあった。
[#ここから1字下げ]
わたくし、此頃髪の前鬢《まえびん》を櫛《くし》で梳きますと毛並の割れの中に白いものが二筋三筋ぐらいずつ光って鏡にうつります。わたくしは何とも思いません。然し強い
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