引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ/\発揮した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――HEY《ヘイ》!。」
[#ここで字下げ終わり]
何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨《りゅうりょう》と吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬ睫《まつげ》のなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さ
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