衣《ゆかた》に丹前を重ねたものを不器用に着て縁に立ちました。硝子《ガラス》戸越の早春の朝の陽差しを眩《まぶ》しい眼ざしで防ぎながら海を眺めていました。
 結婚後一ヶ月目の年の暮から、私をこの海岸の旅館に寄越して置いて、自分は年始廻りやら、正月の交際を済まして五日の日に宿へ来た彼は、割合に荷嵩《にがさ》な手荷物やらゴルフの道具やらを持ち込んだ。私は宿の女中に手伝って貰って、一先ずそれ等を部屋の中に適当に処置するために働いていました。
「気に入りましたわ。平凡なところが」
 私はこんな返事をしながら、良人があまりに胸高に締め過ぎた帯を後からそっと掴《つか》み下げてやるほど、形だけは遠慮がとれた妻になっていました。良人はちょっと私を振り返って、自分でも帯の前の方をずり下げながら、
「平凡かね。なるほど……いや、気に入らなければどこへでも移ってあげるよ」
 と云って、女中に座敷の中の煙草を取らして、そこの籐椅子《とういす》で、煙をふかし始めました。
「ほんとに皮肉でも何でもなく、平凡なところが結構でございますのよ」
 その平凡なところを結構とする私のこころはこうでありました。若《も》し、秀抜な山のたたずまいや、雄渾《ゆうこん》な波濤の海を眺めやったなら、それを讃嘆する心の興奮に伴って、さすがに埋め尽した積りの珪次との初恋の埋火《うずみび》が、私の心に掻き起されないものでもないような気がしてならなかったのでありました。実際この浜には乾いた枯蘆しかなく、水は遠浅の内海ですが、しかし沖のかたに潮満ち寄せる日中の白帆の群が介殻《かいがら》を立て並べたように鋭く閃めき、潮先の泡に向って飜り落ちてはまた煽《あお》ぎ上る鴎の光って入乱れる影が、ふと眼に入ると、どういうものか私は堪らなくなりました。水はしずしずと渚《なぎさ》に寄せて青く膨れ上る。悠久な天地は悠久なままで、しかも人を置き去りにして過ぎ去って行く。人はどんどん取り残される。淋しいことだ。その時私は珪次も良人も要らない。ただ初恋のあの情熱だけを、いま一度取り戻したい。いのちにかけても、そう思いながら自分で自分の胸を抱いて座敷に立ったまま、嗚咽《おえつ》の声を堪え兼ねるのでありました。
 夜になって闇の沖にいさり火の見えるのも苦しかった。見果てぬ夢をあまり短くして断ったそれを惜しませるような、冷たく揶揄《やゆ》するような沖の篝火《
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