伴う痛みではなかったでしょうか。

 母の家政のやり方をただ虚栄で我儘と見た旧弟子達は、だんだん寄りつかなくなっていました。一人だけ昔と変りない及川に、母は娘の私を頼むより仕方がなかったのでした。私の少しばかりの身の廻り品を纏《まと》めて小風呂敷包みにして、それを抱えおじさんのように私に附添って母のところへ送り返した及川は、ごくあっさり
「お嬢さまは私が行った時、蒟蒻を煮ておいでになりました」
 と報告しました。私に武者振りついても、飽くまで詰責《きっせき》しようと待構えていた母も、これですっかり気先《きさき》を挫《くじ》かれて、苦笑するより仕方ありませんでした。そのあと母は泣き出して、おろおろ声で及川に頼むのでした。
「今後はこの子をあなたがいつまでも面倒見てやって下さい。私の手には余ります」
 すると及川は案外気さくに引受けて
「は、承知いたしました」
 及川はどういう意味に母の頼みを引受けるつもりか。そう云ってからからと笑いました。それから、眼を深く瞑《つむ》り腕組をして、
「さあ、こういう時に、歿《な》くなられた先生の批判が伺《うかが》い度いものです。及川、貴様は科学者にしては冷静を欠くと、よく先生に叱られたものですが……」
 良人の話によると、珪次は、良人が私との離別を云い出すと、激しく怒ったり泣いたりして、自殺するとまで云ったとのことであります。
「そこで安心して帰って来ました」と良人は云いました。私はあわてて
「それがどうして安心なのでございます」
 と訊いた。良人は
「あの時、珪次君がじーッと眼を据えて、唇を噛み、顔が鉛色にでもなるようだったら、監視も要し兼ねないでしょうが、ああいう風に即座にタップのステップでも踏んでしまうように興奮して仕舞えば、総《すべ》てが発散して、却ってあとには残らんでしょう」
「どうしてそんなことを……」
「僕は自分で苦しんだ体験に無いことは、自分で信じもせず、また人にも云えぬようになっていますね」
 私はこの人は恐ろしい男である。ひょっとすると、この力で巧んで私を珪次から奪い取ったのではあるまいかと、脅迫観念にさえ襲われました。しかし、仮りに奪われて来たにしろ、その力は讃嘆すべき程|頼母《たのも》しかった。こうして私はやがてこの人と結婚式を挙げました。

「どうだね、ここは」
 良人は浴室で一風呂浴びて来た血色のいい肌へ浴
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