扉の彼方へ
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)良人《おっと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)癖|締《し》め
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 結婚式の夜、茶の間で良人《おっと》は私が堅くなってやっと焙《い》れてあげた番茶をおいしそうに一口飲んでから、茶碗を膝に置いて云いました。
「これから、あなたとは永らく一つ家の棟《むね》の下に住んで貰わなければならん。遠慮はなるべく早く切り上げるようになさるがいい」
 私は良人にこう云われると、持ち前の子供らしさが出てつい小さな欠伸《あくび》を一つ出して仕舞いました。良人はそれを見るとやや嗄《か》れたような中年男の声に、いたわりの甘味をふくめて、「ははあ」と軽く笑って云うのでした。
「一日中人中で式や挨拶やで嘸《さぞ》窮屈疲れがしたでしょう。今夜はゆっくり寝みなさるがいい。廻り椽の角の日本座敷、あすこはこの先ともずっとあなたの部屋になるところだから、どうにでも気儘《きまま》にして寛《くつろ》いで下さい」
 私はどぎまぎして良人のいうことの意味はよく酌《く》み取れませんでしたが、良人の気性を充分に知っている私は、夫のそのいたわりを全部善意にうけ取ることが出来ました。私は小学生が復習の日課を許して貰ったように、お叩頭《じぎ》をして、つい、
「有難うございます」と云って仕舞いました。
 そして「おやすみなさいまし」と元気よく云って立ち上り、良人が呼んで呉れた老女に導かれて部屋へ退こうとしました。その時良人はちょっと手を上げて私を呼び止め、微笑しながら云いました。
「あなたを大切にして上げる気持ち、判ってるでしょうね」
 私は、さきにも云いました通り、夫の言葉を全部善意に解して、何を誤解などしようかと、その時も何の気も付かずにいましたが、なるほどあとで考えれば、相手に嫌われてるのではないかと、まだ相手は心に打ち解けられないものを持っているのではあるまいかなど、随分疑ってもよい、良人の仕打ちでないことはありませんのです。私がずっと年下の後添《のちぞ》いの妻であるだけに、それが一層あってよい筈でした。
 ここでちょっと、私と只今の良人との結婚の事情を説明して、お話しますが、良人はもと私の父に使われていたある種の科学研究所の助手で、父と何か意見の衝突があって、学問は思いとどまり、自分で事業を経営して見た
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