がうまく行かず、一度外国へ立退いて帰ってから一廉《ひとかど》の事業企劃家《プラン・メーカ》になったのだそうです。良人は四十も過ぎているし、私はやっと二十二の春を迎えた許《ばか》りですし、誰が見ても順当に運んだ新郎新婦とは受取りますまい。良人が父の助手時代は、私はまったくこどもで、良人の動静については殆ど知りませず、年頃になってから、正月と盆にだけ私の実家へ挨拶に来る紳士があって、それが今の良人であったのですが、ただ普通に義理堅い父の旧弟子の一人と思っていただけです。その時分はもう父はなくなっていましたから、良人は座敷へ上りはするが、母に会ってお土産《みやげ》の品を出し、簡単な世間話や、時候の挨拶位で、帰って行きました。
 たまたま私が居合せると、女中に代ってお茶を運ばせられることぐらいはあり、その時良人は私に向って、愛想に西洋の娘さんの話などしたり、ある時はまた父の在世中の逸話など二三して、「お亡《な》くなりになってから、やっぱり先生は偉い方だったと想い出されます」と母と私に向って、等分に云ったりしたのを覚えています。
 その人は骨組ががっしりして大柄な樫《かし》の木造りの扉《ドア》のような感じのする男で、橙《だいだい》色がかったチョコレート色の洋服が、日本人にしては珍らしく似合うという柄の人でした。豊な顎《あご》を内へ引いて髭《ひげ》はなく、鼻の根の両脇に瞳を正しく揃《そろ》え、ごく僅か上眼使いに相手を正視するという態度でした。左の手はしょっちゅう洋袴《ずぼん》のポケットへ入れていましたが、胸のハンカチを取出すとき、案外白い大きい手の無名指《くすりゆび》にエンゲージリングの黄ろい細金がきらりと光ったのを覚えています。
 その人が帰ったあと、私は母に何気なく
「あの方、結婚してなさるの」と訊きますと、母は
「してなさるが、どうも奥さんと面白くない噂でね」と云いました。

 私はそのとき、青年の珪次との恋に夢中になっていましたから、こんな壮年の妻帯者に興味どころではなく、全く没交渉の感じしか持っていませんでした。珪次はそのとき私と同じ年の二十一で、みずみずした青年でした。官立大学で経済を学んでいたために、父亡き後の母は、この遠縁に当って足繁く自家へ出入する青年を、何かと相談相手にして、いわば私との恋仲も黙許よりも、寧《むし》ろ奨励する形で、結婚にまで熟するのは容易な道
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