かがりび》でありました。灯は人の眼のように瞬《またた》くだけなお悪ったのです。私は早く月の夜になればいいと希《ねが》いました。月の夜になるとこの辺ではいさり火を焚く舟は出さないのです。
 私はふと気がついて自分の冥想をまぎらすように、
「ばあやどうしています」と良人に訊きました。それと良人が海を眺めていた顔を室内へ振り向けて、
「この宿の食事はどうかね」という言葉とがかち合いました。良人も実は何か考えていたのを紛らすためにいった言葉らしい声音でした。
 二人はただ微笑して、強いて返事を訊く必要もないお互の問いであることを、暗黙に示し合いました。そして暫くの間、浜辺に近い遠浅の春のようにあたたかい陽がのろりのろり淀んだ海面に練られている穏かな平凡の中に、万事を忘れるようにしました。岬をめぐって来る汽船の汽笛の音が聞えました。
「ほんとにこんなに永く滞在していて、あなたのお仕事はよいのですか」と私は良人に訊きました。正月も二十日過ぎです。
「僕はある点無茶な男でね。これが一番人生で、値打ちがあると信じたことに向っては、万事を放擲《ほうてき》して目的に取り組む。普段は随分打算家で、世間師の僕だがね。ここのところを君のお父さまは冷静を欠くと叱りなすったし、僕の前の……」と云いかけたが、ぐっと声を太めて、「僕の前の妻は圧制な暴君のように誤解して仕舞ったのだ」
 ここで良人は一寸《ちょっと》私の顔を見て、
「しかし、僕はこれが身上なのだ。これを取り去られては僕というものがない。だんだん判って来たでしょうが、あまり気にしないで呉れ給え」
 私は良人が私をうち見守る眼差の中で、結婚して始めての嬌態を作って、こう云わないでは居られませんでした。
「値打ちのある目的って、どんな目的をお持ちなのよ」
 すると良人は、逞ましい腕を伸ばして私を自分の胸に押しつけました。
「僕のこの頑固な胸を君に開いて貰いたいのだ」
 ああ、それは実に開くに骨の折れる重たい樫の木の扉《ドア》である。そしてその扉は良人の胸にばかりあるのかと思いの外、私の胸にもそれがあるのでした。一ばん困ることは、その扉を開けかけるとその隙間から、まず、結婚前のお互の想い出の辛い悲しい侏儒《しゅじゅ》がちろちろと魂に忍び込むことでした。良人にとっては前の妻であろうが、私にとっては珪次の想い出なのです。今頃、珪次はおとなしく再び学
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