物語の世界にばかり棲《す》み得る娘であった。この嘘《うそ》を現在の自分として今夜の街に生きる不思議を想《おも》うと彼女は嬉《うれ》しくて堪《たま》らなくなった。彼女はおしろいを指の先に捻《ね》じつけて鏡の上に書いた。
「わたしの巴里《パリ》!」
 マギイ婆さんとおいぼれ[#「おいぼれ」に傍点]がやって来た。二人とも案外《あんがい》見られる服装をしてやって来た。この界隈《かいわい》の人の間には共通の負けん気があった。いざ[#「いざ」に傍点]というときは町の小商人にヒケ[#「ヒケ」に傍点]はとらないという性根《しょうね》であった。その性根で用意した祭《まつり》の踊《おどり》に行く時の一張羅《いっちょうら》を二人はひっぱって来た。白いものも洗濯したてを奮発《ふんぱつ》して来た。
 三人はそこで残りの葡萄酒《ワイン》を分けて飲んだ。
「わたしの今夜の父親のために。」
 リゼットは盃《さかずき》を挙《あ》げた。
「わたしも今夜の愛する娘のために。」
 鋸楽師《のこがくし》は肝臓を押《おさ》えながらぬかりなく応答した。
 リゼットはマギイ婆さんに向《むか》っても同様に盃を挙げた。それに対して婆さん
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