ような花の層に柔かい萌黄《もえぎ》いろの桃の木の葉が人懐《ひとなつ》かしく浸潤《にじ》み出ているのに気を取り倣《な》されて、蝙蝠傘《こうもりがさ》をすぼめて桃林へ入って行った。
 思い切って桃花の中へ入ってしまえば、何もかも忘れた。一つの媚《こび》めいた青白くも亦《また》とき色の神秘が、着物も皮膚も透《とお》して味覚に快《こころよ》い冷たさを与えた。その味覚を味《あじわ》う舌が身体《からだ》中のどこに在《あ》るやら判《わか》らなかったけれど味えた。「伝十郎」とまるで人間の名のように呼ばれるこれ等《ら》の桃の名を憶《おも》い出して可笑《おか》しくなった。私は、あはあは声を立てて笑った。
 冷たいものがしきりなしに顔に当《あた》る。私は関《かま》わずに、すぼめて逆さに立てた蝙蝠傘を支えにして、しゃがんで休む。傘の柄《え》の両手の上に顎《あご》を安定させ、私は何かを静かに聴《き》く。本能が、私をそうさせて何かを聴かせているらしい。桃林の在るところは、大体《だいたい》川砂の両岸に溢《あふ》れた軽い地層である。雨で程《ほど》よく湿度を帯びた砂に私の草履《ぞうり》は裸足《はだし》を乗せてしなやかに
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