腹が減ったでしょう。ちょっと待ってらっしゃい」
 そういって主人は障子を開けて中へ入った。
 それは多分、四月も末か、五月に入ったとしたら、まだいくらも経たない時分と記憶する。
 静岡辺は暖かいからというので私は薄着の綿入れで写生帳とコートは手に持っていた。そこら辺りにやしお[#「やしお」に傍点]の花が鮮《あざやか》に咲き、丸味のある丘には一面茶の木が鶯餅《うぐいすもち》を並べたように萌黄《もえぎ》の新芽で装われ、大気の中にまでほのぼのとした匂いを漂わしていた。
 私たちは奥座敷といっても奈良漬色の畳にがたがた障子の嵌《はま》っている部屋で永い間とろろ汁が出来るのを待たされた。少し細目に開けた障子の隙間から畑を越して平凡な裏山が覗かれる。老鶯《ろうおう》が鳴く。丸子の宿の名物とろろ汁の店といってももうそれを食べる人は少ないので、店はただの腰掛け飯屋になっているらしく耕地測量の一行らしい器械を携《たずさ》えた三四名と、表に馬を繋いだ馬子《まご》とが、消し残しの朝の電燈の下で高笑いを混えながら食事をしている。
 主人は私に退屈させまいとして懐《ふところ》から東海道|分間《ぶんま》図絵を出し
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