な気がした。紳士は丁寧に礼をして、自分がこの土地の鉄道関係の会社に勤めて技師をしているということから、昨晩、倶楽部へ行ってふと、亡父が死前に始終その名を口にしていたその人が先頃からこの地へ来てNホテルに泊っていることを聴いたので、早速訪ねて来た顛末《てんまつ》を簡潔に述べた。小松というのは母方の実家の姓だと言った。彼は次男なので、その方に子が無いまま実家の後を嗣《つ》いだのであった。
「すると作楽井さんは、もうお歿《な》くなりになりましたか。それはそれは。だが、年齢から言ってもだいぶにおなりだったでしょうからな」
「はあ、生きておれば七十を越えますが、一昨年歿くなりました。七八年前まで元気でおりまして、相変らず東海道を往来しておりましたが、神経痛が出ましたので流石《さすが》の父も、我を折って私の家へ落着きました」
 小松技師の家は熱田に近い処に在った。そこからは腰の痛みの軽い日は、杖《つえ》に縋《すが》りながらでも、笠寺観音から、あの附近に断続して残っている低い家並に松株が挟まっている旧街道の面影を尋ねて歩いた。これが作楽井をして小田原から横浜市に移住した長男の家にかかるよりも熱田住み
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