ないか」
私は、はじめ何をこの忙しい中に主人が言うのかと問題にしないつもりでいたが、考えてみると、もうこの先、いつの日に、いつまた来られる旅かと思うと、主人の言葉に動かされて来た。
「そうですね。じゃ、まあ、ほんとに久し振りに行ってみましょうか」
と答えた。そう言いかけていると私は初恋の話をするように身の内の熱くなるのを感じて来た。初恋もない身で、初恋の場所でもないところの想い出に向って、それは妙であった。私たちは翌朝汽車で桑名へ向うことにした。
朝、ホテルを出発しようとすると、主人に訪問客があった。小松という名刺を見て主人は心当りがないらしく、ボーイにもう一度身元を聞かせた。するとボーイは
「何でもむかし東海道でよくお目にかかった作楽井の息子と言えばお判りでしょうと仰《お》っしゃいますが」
主人は部屋へ通すように命じて私に言った。
「おい、むかしあの宇津で君も会ったろう。あの作楽井の息子だそうだ。苗字は違っているがね」
入って来たのは洋服の服装をきちんとした壮年の紳士であった。私は殆ど忘れて思い出せなかったが、あの作楽井氏の人懐《ひとなつ》っこい眼元がこの紳士にもあるよう
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