々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄《ふる》えるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏《いかだ》にしそれをぶん流す河のような声だ。
 某日。――主人が東京から来たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶《あいさつ》に来た。庭続きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちゃんのような番頭さんのような一人の男を連れて居た。浅いぬれ縁に麻川氏は両手をばさりと置いて叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。仕つけの好い子供のようなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯《さっ》と額にかかるのを氏は一々|掻《か》き上げる。一芸に達した男同志――それにいくらか気持のふくみもあるような――初対面を私は名優の舞台の顔合せを見るように黙って見て居た。
 某日。――朝、洗面所で麻川氏に逢《あ》う。「僕、昨夜、向日葵《ひまわり》の夢を見ました。暁方《あけがた》までずっと見つづけましたよ。」と冷水につけた手で顔をごしごし擦《こす》り乍《なが》ら氏は私に云う。「それで今朝、頭が痛くありませんか。」私は何故だか氏に、こんなことを聞いて仕舞った。「ほおう。まるでゴッホの問答みたいですな。」麻川氏はこう云って、タオ
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