川氏が読んだか読まないか葉子は当時気にもとめなかったが、矢張り読んで居たことを一ヶ月間H屋に同宿して居るうちの麻川氏との交際で判《わか》った。)
とにかく、こんな前提は、いよいよとなると葉子の心から一掃されて、葉子にはただ崇拝する文学者麻川荘之介氏と同宿するという突然な事実ばかりが歴然と現前して来るのであった。その後の事を語る順序として葉子の鎌倉日記のうち多く麻川氏を書いて居る部分を摘出する。
某日。――麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗《しなさらさ》(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想《れんそう》である。)のような藍色模様《あいいろもよう》の広袖浴衣《ひろそでゆかた》を着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺《つぼ》が、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。
某日。――麻川氏の太いバスの声が度
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