るとふとその気になるんだわ。」私もほぼ判っては居るのだけれど今頃になって涙が出て仕方がない。主人「とにかくあの人の神経にゃ君が噛《か》み切れないんだよ。そうかって君って人にはどうも無関心になり切れないらしいな。ああいった性分の人には……それで焦《じ》れてついいろんなことを云ったり仕たりしちまうんだな。」
 この時、途中、馬車から自分の宿へ降りて行った赫子がまた麻川氏の部屋へ来たらしい高声が聞えた。従妹が一寸《ちょっと》顔色を変えたのを主人は眼で制した。そして煙草《たばこ》に火をつけてから云った。「どうだい。一たん東京へ引き上げちゃあ。そして九月になってみんな帰っちまってからまた来るとしちゃ。」

 葉子はこの日記の終った大正十二年八月下旬以来、昭和二年春まで、足かけ五年も麻川荘之介氏に逢《あ》わなかった。昭和二年の早春、葉子は、一寸した病後の気持で、熱海の梅林が見度《みた》くなり、良人《おっと》と、新橋駅から汽車に乗った。すると真向いのシートからつと立ち上って「やあ!」と懐しげに声を掛けたのは麻川荘之介氏であった。何という変り方! 葉子の記憶にあるかぎりの鎌倉時代の麻川氏は、何処か齲《
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