を誰も知らないつもりで済まし返って部屋へ引っ込んで行った氏。またある日の午後、盥《たらい》の金魚をたった一人でそっと覗《のぞ》いて居た氏。ひっそりと独りの部屋で爪《つめ》を切って居た氏。黙って壁に向って膝《ひざ》を抱いて居た氏。夜陰窓下の庭で上半身の着衣を脱いでしきりに体操をして居た氏。ふと、創作の机から上げた氏の顔が平生の美貌《びぼう》と違った長いよれよれの顔で、気味悪いグロテスクな表情を呈して居た。これらは、他人に向って一種のポーズをつくり、文学だの美術だのを談って居る氏よりも、どれほど無邪気で懐しく、人間的な憂愁や寂寞《せきばく》のニュアンスを氏から分泌しているかも知れないのだ。私が氏の為めに、随分腹立たしい不愉快な思いをし乍ら、いつかまた好感を持ち返すのは、ふとした折に以上のような氏の人知れない表情に触れるともなく触れるからかも知れないのだ。
 某日。――蒸暑い風が、海の方から吹き続けてきて、部屋には居たたまれない夜だ。叔母さんは、お駒婆さんと親しくなって、町へ一緒に買物に行った。私は、たまった手紙を書き終え九時頃従妹と庭の涼み台に出た。其処にたった一人麻川氏が居た。星の多い夜
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