だか嫌な気持ちがしたが「あのお客さんあんまり大声で話したててたからね」と云ったあと、いくらか麻川氏に気の毒な感じもした。
 某日。――朝早く主人は社用で大阪に発《た》って行った。麻川氏の部屋の前を通ると、氏は例の非常に叮嚀《ていねい》なお辞儀をした。そしてH屋の表門まで私と一緒に主人を送って出てまた叮嚀な送別の辞を述べた。いつも乍ら好感の持てる氏の都会児らしい行儀の好い態度、そして朝風に黒上布《くろじょうふ》の単衣《ひとえ》の裾《すそ》が揺れる氏の長身を、怜悧《れいり》に振りかざした鞭《むち》のように私はうしろから見た。画家K氏は二三日前一たん東京へ帰り、早朝まだ一人の来客も麻川氏の部屋には無い。氏は私に寄って行けと云う。氏の部屋の浅縁に腰かける。藤棚の藤が莢《さや》になって朝風にゆらめくのを少し寝不足の眼で私がうっとりと眺めて入って居ると麻川氏は私のずっと後の薄暗い床脇《とこわき》に蹲居《そんきょ》の恰好《かっこう》で坐《すわ》り込んだ。そして暫《しばら》く黙って居た。私も黙っていた。真白い犬が私の眼の前を通った。犬は私の方を振り返り振り返り垣根の穴から出ていった。麻川氏は唸《うな》
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