川氏が読んだか読まないか葉子は当時気にもとめなかったが、矢張り読んで居たことを一ヶ月間H屋に同宿して居るうちの麻川氏との交際で判《わか》った。)
 とにかく、こんな前提は、いよいよとなると葉子の心から一掃されて、葉子にはただ崇拝する文学者麻川荘之介氏と同宿するという突然な事実ばかりが歴然と現前して来るのであった。その後の事を語る順序として葉子の鎌倉日記のうち多く麻川氏を書いて居る部分を摘出する。

 某日。――麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗《しなさらさ》(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想《れんそう》である。)のような藍色模様《あいいろもよう》の広袖浴衣《ひろそでゆかた》を着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺《つぼ》が、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。
 某日。――麻川氏の太いバスの声が度々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄《ふる》えるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏《いかだ》にしそれをぶん流す河のような声だ。
 某日。――主人が東京から来たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶《あいさつ》に来た。庭続きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちゃんのような番頭さんのような一人の男を連れて居た。浅いぬれ縁に麻川氏は両手をばさりと置いて叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。仕つけの好い子供のようなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯《さっ》と額にかかるのを氏は一々|掻《か》き上げる。一芸に達した男同志――それにいくらか気持のふくみもあるような――初対面を私は名優の舞台の顔合せを見るように黙って見て居た。
 某日。――朝、洗面所で麻川氏に逢《あ》う。「僕、昨夜、向日葵《ひまわり》の夢を見ました。暁方《あけがた》までずっと見つづけましたよ。」と冷水につけた手で顔をごしごし擦《こす》り乍《なが》ら氏は私に云う。「それで今朝、頭が痛くありませんか。」私は何故だか氏に、こんなことを聞いて仕舞った。「ほおう。まるでゴッホの問答みたいですな。」麻川氏はこう云って、タオ
前へ 次へ
全30ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング