ルで顔を拭《ふ》き終えて私の顔を正面から見た。眼が少し血走って居る。氏は「は、」と一つ声を句切って、「ではまた午後、………昼前は原稿を書きます。」と云って叮嚀《ていねい》にお辞儀をして部屋に入って行った。
 午後わあわあと大声を立てる若い女が麻川氏の部屋へ来たようだ。夕方、恰好《かっこう》の好い中背の若い女の洋装姿が麻川氏の部屋から出て庭芝を踏んで帰るのを見かけた。横顔が少し下品だが西洋の活動女優のような線を見せた。「大川宗三郎君(作者註、大川氏は麻川氏の先輩で、その頃有名な耽美派《たんびは》作家とも悪徳派作家とも呼ばれて居た。)の妻君の妹ですよ。赫子ってお転婆さんですよ。」と藤棚の下で麻川氏が云った。番頭さんのような若い男が縁側で私の顔をうかがって居る。掃除した煙草盆《たばこぼん》を座敷に持って来たH屋譜代の婆やお駒さんは開けっぱなしの声で「へへえ、あれが大川さん御自慢の妹さんですか。」麻川氏は苦っぽく微笑して云った「別に自慢でも無いだろうが、細君より気軽に何処へでも連れて行ける女だからな。」「奥さんは日本風の顔立ちのおとなしい美人でしょう、妹さんは違いますね。」と私。麻川氏の番頭さんは云う「奥さんのような美人も好きだし、赫子さんのようなのも好きだし。」麻川氏「つまり、釈迦《しゃか》に拝し、キリストに拝し……。」「マホメットには誰がなる……ですかな。」と麻川氏の番頭さん。麻川氏「莫迦《ばか》。彼自身は飽《あく》まで厳粛なんだぞ。」
 某日。――二三日前、画家のK氏が東京から来て麻川氏の部屋のメンバーになった。噂《うわさ》によれば夏目漱石先生が津田青楓氏を師友として居た以上K氏と麻川氏は親愛して居るのだそうだ。K氏は、頭を丸刈にしたこっくりした壮年期に入ったばかりの人、吃々《きつきつ》として多く語らず、東洋的なロマンチストらしい眼を伏せ勝ちにして居る。隻脚《せっきゃく》――だがその不自由さも今はK氏の詩情や憂愁を自らいたわる生活形態と一致させたやや自己満足の諦念《ていねん》にまで落ちつけたかに見うけられる。けれども、矢張り逃避の世界が、K氏をめぐって漠然と感じられる。それで麻川氏の性格や好みがますますK氏に傾倒して行くことも察せられる。それからすこしつき合って居るうちに、部厚なこっくりしたK氏の体格のどこかに落ちつきくさったそして非常にデリケートな神経が根を保ってい
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