た。葉子は今迄ひと[#「ひと」に傍点]に返事の必要の手紙を出して返事を貰わなかった覚えが無かったので、いくらか消気《しょげ》てすこし怨みがましい心持になって居た処へ、ある人がそれに就《つ》いて、
「あの人は、坂本さんの戯画の材料をあなたから出てるとでも思ってるか知れませんよ。そして用心深いから身辺を用心する為めにあなたを敬遠しちまったのかも知れませんよ。」
と葉子に云った。そう云われれば葉子は坂本より文壇に近いわけである。けれど文壇的社交家でない葉子は文学雑誌記者であり新進小説家としての川田氏が提供する程の尖鋭的《せんえいてき》な材料など持ち合わし得べくもなかったのだ。葉子はますます味気ない気持ちになったが麻川氏がもしそういう用心をするならそれも当然な気がしたし、それやこれやで小説をひとに見て貰う気などはいつか無くなって居た。
葉子という女性は、時によっては非常に執念深く私情に駆られるが、時によってはまるで別人のように公平で淡白な性質も持って居る。麻川氏とのいきさつも理解がつくといつかさっぱりと、葉子の心に打ち切られて仕舞った。ところがそのすこしあと、葉子は全然別な角度から麻川氏を見かけた。それは或夜、大変混雑な文学者会が、某洋食店楼上で催され麻川氏もその一端に居た。淡い色金紗《いろきんしゃ》の羽織がきちんと身に合い、手首のしまったきびきびした才人めいた風采《ふうさい》が聡明《そうめい》そうに秀でた額にかかる黒髪と共にその辺の空気を高貴に緊密にして居た。がさつな、だらしない風をした沢山の文人のなかに、そういう麻川氏を見て葉子はこころにすがすがしく思い乍《なが》ら、ふと、麻川氏の傍に嬌然《きょうぜん》として居るX夫人を見出した。そして麻川氏がX夫人に対する態度を何気なく見て居ると、葉子はだんだん不愉快になって来た。麻川氏はX夫人に向って、お客が芸者に対するような態度をとり始めた。葉子はそこで倫理的に一人の妻帯男が一人のマダムに対する不真面目《ふまじめ》な態度を批判して不愉快になったのでは無い。(ましてX夫人は兼《かね》てから文人達の会合等に一種の遊興的気分を撒《ま》いて歩く有閑婦人だった。善良な婦人で葉子はむしろ好感を持っては居るがからかわれて惜しい婦人とは思って居なかった。)麻川氏を惜しむこころ、麻川氏の佳麗な文章や優秀な風采、したたるような新進の気鋭をもって美
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