だか嫌な気持ちがしたが「あのお客さんあんまり大声で話したててたからね」と云ったあと、いくらか麻川氏に気の毒な感じもした。
某日。――朝早く主人は社用で大阪に発《た》って行った。麻川氏の部屋の前を通ると、氏は例の非常に叮嚀《ていねい》なお辞儀をした。そしてH屋の表門まで私と一緒に主人を送って出てまた叮嚀な送別の辞を述べた。いつも乍ら好感の持てる氏の都会児らしい行儀の好い態度、そして朝風に黒上布《くろじょうふ》の単衣《ひとえ》の裾《すそ》が揺れる氏の長身を、怜悧《れいり》に振りかざした鞭《むち》のように私はうしろから見た。画家K氏は二三日前一たん東京へ帰り、早朝まだ一人の来客も麻川氏の部屋には無い。氏は私に寄って行けと云う。氏の部屋の浅縁に腰かける。藤棚の藤が莢《さや》になって朝風にゆらめくのを少し寝不足の眼で私がうっとりと眺めて入って居ると麻川氏は私のずっと後の薄暗い床脇《とこわき》に蹲居《そんきょ》の恰好《かっこう》で坐《すわ》り込んだ。そして暫《しばら》く黙って居た。私も黙っていた。真白い犬が私の眼の前を通った。犬は私の方を振り返り振り返り垣根の穴から出ていった。麻川氏は唸《うな》るように太い声で後から私に云った。「僕あですな。理智主義と云われる程、上昇しても居ません。また技巧派と片づけられる程堕落もして居ないつもりです……。」「あ、ゆんべの『種|蒔《ま》く人』の云ったことですか。」私は直覚を言葉に出して仕舞った。「種蒔く人。がどうだって構わないんです。僕だって、マルクスやレーニンに関心を持つことは敢《あえ》て人後に落ちないつもりですからな。僕あ、趣味としてはことごとく在来の日本人だけれど精神力のたくましさに於て、マルクスや、レーニンにむしろ同じるな。」「そうでしょうとも、あなたには、何処か精悍《せいかん》な歯があるわ。」「で、あなたは『種蒔く人』に何を話しましたか。」「私は大方|聴《き》いて居ただけですわ。大体まだ資本論さえ読んで居ないんですもの何とも云えません。ただね、実につまらないかもしれないことを一寸《ちょっと》云ったのよ。いくら物質の平均が行われても人間の持って生れた智能や、容貌《ようぼう》の美醜の平均までは人為的制度でどうにもならないでしょう。かりに茲《ここ》に二人の人間があり、一人は智能や美貌《びぼう》を持って生れて来て居るが他の一人より物資を持た
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