ない。その時、他の一人は、前者のように智能や美貌は持たないが、物資に恵まれて居る為めにその不平はともかくも補われて居る。その時、その物資を後者から奪って前者との均等を行ったら、後者には智能や美貌は前者より持ち合わせない不公平ばかりが歴然と残る。ね。これをどうします。こんな意味の事を私『種蒔くさん』に聞きました。でも、返事がはっきり判《わか》りませんでしたわ。」「はは……ちょっと子供じみた質問だがそりゃあ真理ですな、たしかに、僕等にしても、やたらに物質の平等よばわりは同じ難いけれど、然《しか》し、茲に一つの新らしい主義や人類の愛慾が発見され、それに向って人心や時代が推移傾倒して行くことは、それが絶対真理であろうと、無かろうと、推移そのものに立派な理由があるのですから仕方が無いですな。たとえば、硯友社《けんゆうしゃ》に反抗して起った自然主義が、いくら平面的文学であり、その後に起った耽美派《たんびは》文学がまた、単なる言葉の織物であるにしても、其処には推移そのものの真理が厳存するのだから仕方がない。」そう云って氏は、いくらか体をのり出して来た。唇がすこし慄《ふる》えて不安らしい眼つきになった。「だが、今度の、マルクス文学|擡頭《たいとう》の気勢は前例のものより、かなり風勢が強いらしいですよ。」氏がだんだんいらだって来るので何とか云わなければならない気配に私は迫られた。「あのね。ダンテは天国篇より地獄篇を好く書いてますね。」私は何という突然なことを云い出したのか、自分でも呆《あき》れたが、麻川氏は意外にも素直に返事をした。「そうですな。由来、人類は極楽を理想とし乍《なが》ら実際に於てむしろ地獄に懐き親しんで居る。ダンテといえども……。」氏は斯《こ》う云い乍ら床の間の奥から今まで私の眼に見えない処へ転がしてあったメロンを取出して来て、器用に皿へ載せナイフで割った。そして歯を出して笑い乍ら、「われわれなんざ、宜《よろ》しく新時代に斯の如くぶち割らるべきです。ははは……。だが、」とまた云って氏はメロンのなかからはみ出して来た種をナイフの尖《さき》でつっ突き乍ら「だがねえ、われわれのなかにだってこんな種がうじゃうじゃしてますよ。こいつがまた、地の底へもぐって、いつの時代にか、もくもくと芽を出すでしょうから、厄介なもんでさあ。」
 白い犬が、何処からか帰って来た。またのっそりと私の眼
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