千代重の手首は折れる程痛かった。
「あんた真当《ほんとう》にそんな真似をする気※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 かの女は息を喘がした。
「一緒に生活しているものが、そんな嫌なことをするのは、あたしがするのも同然、気味悪いわ。止《よ》して頂戴! 止して頂戴!」
 かの女の躍起となった瞳から、かの女の必死に掴んだ指から、千代重が今まで栖子からうけたことのない感覚が、薄荷《はっか》を擦り込むような痛さと共に骨身に浸み込んだ。
 すると、千代重は暫らく何の判断もなくなり、ただ身軽な自分がほんのり香水に温められるように、気遠くなった。掌の虫はどこかへ飛んでしまっていた。
 手首の痛みがゆるめられて来ると、千代重はただなつかしい世界に浮き上り、自分の唇の真向きの位置に、少し盛り上った栖子の唇が意識された。
 生身の唇と唇とは、互いに空気に露き出しになっているのを早く庇い度いように、間の距離を縮めて来た。しかし、千代重はぴくりとして、そこで止った。
「この情勢のままに従って行ったら、結局、普通平凡な男女間の暗黒な恍惚に陥るだけだ。肉体的の生命を注ぎ合うほど情感の濃い匂いは発散して、人間を白けさ
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