うまさということは神秘だ」――それは人間の他の本能とその対象物との間の魅力に就《つい》てもいえることなのだが、鼈四郎がいうとき特にこの一味だけがそれであるように受取らせる。ひょっとしたらこの青年は性情の片端者なのではあるまいか、他の性情や感覚や才能まで、その芽を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取られ、いのちは止むなく食味の一方に育ち上った。鼈四郎が料理をしてみせるとき味利きということをしたことが無い。身体全体が舌の代表となっていて、料理の所作の順序、運び、拍子、そんなもののカン[#「カン」に傍点]から味の調不調の結果がひとりでに見分けられるらしい。食慾だけ取立てられて人類の文化に寄与すべく運命付けられた畸形《きけい》な天才。天才は大概片端者だという。そういえばこの端麗な食青年にも愚かしいものの持つ美しさがあって、それが素焼の壺《つぼ》とも造花とも感じさせる。情慾が食気にだけ偏ってしまって普通の人情に及ぼさないためかしらん。
一ばん口数を利く妹娘のお絹がこんな考えに耽《ふけ》ってしまっていると、もはや三人の間には形の上の繋《つなが》りがなく、鼈四郎はしきりに煙草の煙を吹き上げては椅子《いす》に踏み反って行くだけ、姉娘のお千代は、居竦《いすく》まされる辛《つら》さに堪えないというふうにこそこそ料理道具の後片付けをしている。一しきり風が窓硝子《まどガラス》に砂ほこりを吹き当てる音が極立《きわだ》つ。
「天才にしても」とお絹はひとり言のようにいった。
「男の癖にお料理がうまいなんて、ずいぶん下卑《げび》た天才だわよ」
と鼈四郎の顔を見ていった。
それから溜《たま》ったものを吐き出すように、続けさまに笑った。
鼈四郎はむっとしてお絹の方を見たが、こみ上げるものを飲み込んでしまったらしい。
「さあ、帰るかな」
としょんぼり立上ると、ストーヴの角に置いた帽子を取ると送りに立った姉娘に向い
「きょうは、おとうさんに会ってかないからよろしくって、いっといて呉《く》れ給え」
といって御用聞きの出入り口から出て行った。
靴の裏と大地の堅さとの間に、さりさり砂ほこりが感じられる初冬の町を歩るいて鼈四郎は自宅へ帰りかかった。姉妹の娘に料理を教えに行く荒木家蛍雪館のある芝の愛宕台《あたごだい》と自宅のある京橋区の中橋広小路との間に相当の距離はあるのだが、彼は最寄《もより》の電車筋へも出ずゆっくり歩るいて行った。
一つは電車賃さえ倹約の身の上だが、急いで用も無い身体である。もう一つの理由はトンネル横町と呼ばれる変った巷路《こうろ》を通り度《た》いためでもある。
いずれは明治初期の早急な洋物輸入熱の名残りであろう。街の小道の上に煉瓦《れんが》積みのトンネルが幅広く架け渡され、その上は二階家のようにして住んでいるらしい。瓦屋根《かわらやね》の下の壁に切ってある横窓からはこどもの着ものなど、竹竿で干し出されているのをときどき見受ける。
鼠色《ねずみいろ》の瓦屋根も、黄土色の壁も、トンネルの紅色の煉瓦も、燻《いぶ》されまた晒《さら》されて、すっかり原色を失い、これを舌の風味にしたなら裸麦で作った黒パンの感じだと鼈四郎はいつも思う。そしてこの性を抜いた豪華の空骸《なきがら》に向け、左右から両側になって取り付いている二階建の小さい長屋は、そのくすんだねばねばした感じから、鶫《つぐみ》の腸《わた》の塩辛のようにも思う。鼈四郎はわたりの風趣を強いて食味に翻訳して味わうとではないが、ここへ彼は来ると、裸麦の匂《にお》いや、鶫の腸にまで染《し》みている木の実の匂いがひとりでにした。佐久間町の大銀杏《おおいちょう》が長屋を掠《かす》めて箒《ほうき》のように見える。
彼はこの横町に入り、トンネルを抜け横町が尽きて、やや広い通りに折れ曲るまでの間は自分の数奇の生立ちや、燃え盛る野心や、ままならぬ浮世や、癪《しゃく》に触る現在の境遇をしばし忘れて、靉靆《あいたい》とした気持になれた。それはこの上|墜《お》ちようもない世の底に身を置く泰《やす》らかさと現実離れのした高貴性に魂を提げられる思いとが一つに中和していた。これを侘《わ》びとでもいうのかしらんと鼈四郎は考える。この巷路を通り抜ける間は、姿形に現れるほども彼は自分が素直な人間になっているのを意識するのであった。ならば振り戻って、もう一度トンネルを潜《くぐ》ることによって、靉靆とした意識に浸り還《かえ》せるかというと、そうはゆかなかった。感銘は一度限りであった。引き返してトンネル横町を徘徊《はいかい》してもただ汚らしく和洋蕪雑《わようぶざつ》に混っている擬《まが》いものの感じのする街に過ぎなかった。それゆえ彼は、蛍雪館へ教えに通う往き来のどちらかにだけ日に一度通り過ぎた。
土橋を渡っ
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