て、西仲通りに歩るきかかるとちらほら町には灯が入って来た。鼈四郎はそこから中橋広小路の自宅までの僅《わずか》な道程を不自然な曲り方をして歩るいた。表通りへ出てみたりまた横町へ折れ戻り、そして露路の中へ切れ込んだりした。彼が覗《のぞ》き込む要所要所には必ず大小の食もの屋の店先があった。彼はそれ等の店先を通りかかりながら、店々が今宵《こよい》、どんな品を特品に用意して客を牽《ひ》き付けようとしているかを、じろりと見検めるのだった。
ある店では、紋のついた油障子の蔭から、赤い蟹《かに》や大粒の蛤《はまぐり》を表に見せていた。ある店では、ショウウィンドーの中に、焼串《やきぐし》に鴫《しぎ》を刺して赤蕪《あかかぶ》や和蘭芹《オランダぜり》と一しょに皿に並べてあった。
「どこも、ここも、相変らず月並なものばかり仕込んでやがる。智慧《ちえ》のない奴等ばかりだ」
鼈四郎は、こう呟《つぶや》くと、歯痒《はがゆ》いような、また得意の色があった。そしてもし自分ならば、――と胸で、季節の食品月令から意表で恰好《かっこう》の品々を物色してみるのだった。
彼の姿を見かけると、食もの屋の家の中から声がかけられるのであった。
「やあ、先生寄ってらっしゃい」
けれども、その挨拶振《あいさつぶ》りは義理か、通り一遍のものだった。どの店の人間も彼の当身《あてみ》の多い講釈には参らされていた。
「寄ってらっしゃいたって、僕が食うようなものはありやしまいじゃないか」
「そりゃどうせ、しがない[#「しがない」に傍点]垂簾《のれん》の食もの屋ですからねえ」
こんな応対で通り過ぎてしまう店先が多かった。無学を見透されまいと、嵩《かさ》にかかって人に立向う癖が彼についてしまっている。それはやがて敬遠される基と彼は知りながら自分でどうしようもなかった。彼は寂しく自宅へ近付いて行った。
表通りの呉服屋と畳表問屋の間の狭い露路の溝板へ足を踏みかけると、幽《かす》かな音で溝板の上に弾《は》ねているこまかいものの気配いがする。暗くなった夜空を振り仰ぐと古帽子の鍔《つば》を外ずれてまたこまかいものが冷たく顔を撫《なで》る。「もう霰《あられ》が降るのか。」彼は一瞬の間に、伯母から令押被《おっかぶせ》の平凡な妻と小児を抱えて貧しく暮している現在の境遇の行体《ぎょうたい》が胸に泛《うか》び上った。いま二足三足の足の運びで、それを眼のあたりに見なければならない運命を思うと鼈四郎《べつしろう》は、うんざりするより憤怒《ふんぬ》の情が胸にこみ上げて来た。ふと蛍雪館の妹娘のお絹の姿が俤《おもかげ》に浮ぶ。いつも軽蔑《けいべつ》した顔をして冷淡につけつけものをいい、それでいて自分に肌目《きめ》のこまかい、しなやかで寂しくも調子の高い、文字では書けない若い詩を夢見させて呉《く》れる不思議な存在なのだ。
「なんだって、自分はあんなに好きなお絹と一しょになり、好きな生活のできる富裕な邸宅に住めないのだろう。人間に好くという慾を植えつけて置きながら、その慾の欲しがるものを真《ま》っ直《すぐ》には与えない。誰だか知らないが、世界を慥えた奴はいやな奴だ」
その憤懣《ふんまん》を抱いて敷居を跨《また》ぐのだったから、家へ上って行くときの声は抉《えぐ》るような意地悪さを帯びていた。
「おい。ビール、取っといたか。忘れやしまいな」
こどもに向き合い、五|燭《しょく》の電灯の下で、こどもに一箸《ひとはし》、自分が二箸というふうにして夕飯をしたためていた妻の逸子は、自分の口の中のものを見悟られまいとするように周章《あわて》て嚥《の》み下した。口を袖《そで》で押えて駆け出して来た。
「お帰りなさいまし。篤がお腹が減ったってあんまり泣くものですから、ご飯を食べさせていましたので、つい気がつきませんでして、済みません」
いいつつ奥歯と頬《ほお》の間に挟った嚥み残しのものを、口の奥で仕末している。
「ビールを取っといたかと訊《き》くんだ」
「はいはい」
逸子は、握り箸の篤を、そのまま斜に背中へ抛《ほう》り上げて負《おぶ》うと、霰の溝板を下駄で踏み鳴らして東仲通りの酒屋までビールを誂《あつら》えに行った。
もう一突きで、カッ[#「カッ」に傍点]となるか涙をぽろっと滴すかの悲惨な界の気持にまで追い込められた硬直の表情で、鼈四郎はチャブ台の前に胡坐《あぐら》をかいた。チャブ台の上は少しばかりの皿小鉢が散らされ抛り置かれた飯茶碗《めしぢゃわん》から飯は傾いてこぼれている。五燭の灯の下にぼんやり照し出される憐《あわ》れな狼藉《ろうぜき》の有様は、何か動物が生命を繋《つな》ぐことのために僅《わず》かなものを必死と食い貪《むさぼ》る途中を闖入者《ちんにゅうしゃ》のために追い退けられた跡とも見える。
「浅間しい」
鼈四郎
前へ
次へ
全22ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング